親鸞さまに学ぶ

親鸞聖人の言葉を味わいます

親鸞さまの言葉に学ぶ

「親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞-生涯と名宝」公式図録

親鸞さまに学ぶ」。このブログを書こうと思うのですが、なかなか、書くことができません。

親鸞さまの言葉は大変丁寧な言葉です。人の尊厳性を傷つけるような言葉を使わないように慎重に言葉を選ばれたのでしょう。
ですからお言葉を読むときには、言の葉を一枚一枚拾い集めるような丁寧な読み方が必要になります。

また無駄な言葉がありません。書かれている言葉一語一語に何らかの意味があります。 

教行信証坂東本(浄土真宗大谷派所蔵・国宝)の原本を京都市美術館で見たことがあります。正信偈のページが開かれていたのですが、何度も訂正したあとがあります。一字一字をどれだけ大切にされたかが伝わってきました。
また2023年京都国立博物館展覧会の図録『親鸞 生涯と名宝』にも教行信証の国宝本が掲載されています。

最近、教行信証を読むときも、お手紙を読むときも、お聖教は他人に説明や解説ををする為に読む文章ではないと思うようになりました。
私自身のありように根本的な問題があるから、お書きいただいた言葉なのではないかと思います。

よくよく案ずれば、お聖教は私に対して書かれたお言葉です。私に対する法話です。法話(法・本願の話し)は、話すものではなく聞くものです。

お聖教を読めば読むほど、自分自身のありようが問われてきて、恥ずかしくなります(慚愧)。
恥ずかしいままに、本当の人間としての生きることができる喜びがあります(歓喜)。
慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)は一枚の紙の表裏の関係です。切り離せません。悲しみと慶びも同じように表裏の関係です。表裏を切り離した言葉ほど虚しいものはありません。

「悲喜の涙」を抑えて由来の縁を註(しる)す」と『教行信証』に書かれていますが悲喜交流(ひきこうる)・悲喜こもごもだといえます。

よくよく案じれば慚愧も歓喜も回心(えしん)も本願のはたらきによるものでしょう。凡夫が自身で起こすことのできる心ではありません。慚愧や歓喜という言葉を知っていたからといって慚愧・歓喜したことにはなりません。 

人間は最初に意(こころ)の内で言葉を用いて考えます。考えた言葉は無意識のうちに、口や身体の行動にも自ずと発露(はつろ)します。ですから、意(こころ)の内で、どのような言葉で考えるのかが非常に大切なことになります。

仏の教えを聞くと、意(こころ)の内でも使うべき言葉と、使うべきではない言葉があることに気づきます。

親鸞さまは自分の言葉に責任をもたれました。厳しく弾圧され、いのちを奪われる危険もあるなかで「愚禿釋親鸞」「親鸞におきては」と名告って、文字を記されています。私たちが読んでいる正信偈は、もし公表されれば弾圧を受けるかもしれない状況で書かれた言葉です。

私の生きる姿勢に、権力や権威にも媚(こ)びず、諂(へつら)わない、終始一貫した姿勢があるのかどうか、振り返ると自身が恥ずかしくなります。

教行信証行文類末に書かれている正信偈というのは、20年以上の歳月をかけて偈(本願の詩)として記されたものです。とても私には自分の書く言葉の一字の重さに、責任がもてないように思えます。おそらく教行信証は意(こころ)の内で、常に法然さまと対話をしながら記されたものでしょう。

自分の言葉に責任を持つことの重さは現代において、SNSで投稿するときにも考えなければならないと思います。このブログも含めてのことですが。以前に聞いた言葉があります。「言葉が憎しみを生む」。どのような場合にでも、人の尊厳性を傷つける言葉は許されないと思います。

親鸞さまの書かれたお聖教の言葉は、すべてに終始一貫する心が貫かれています。それは「ただ念仏のみぞまことにておはします」ということです。私たち凡夫には「まこと」の心はありません。私たちには真実正しいということはないと言うことです。
まことの心は阿弥陀さまからいただくほかありません。

自分が絶対に正しいと確信していることが、迷いであり無明の闇の本質ですから、その闇を破るのは智慧の光明しかありません。自分で正義を確信しているから、自分では無明の闇に気づきようがありません。自分中心の狭い世界のなかで正義を確信していことが邪見で五濁の中心です。義なきを義とす。

親鸞さまほど人間の愚かさ・悲しさ・恥ずかしさを、見つめておられた方はおられません。それが、私が親鸞さまをお敬いする理由です。

親鸞さまの言葉は、言葉では表現できないことを限界まで言葉で表現しようとされました。ですから「○○でもない」「△△でもない」「非(あら)ず」「非(あら)ず」という否定の表現を積み重ねるしかないことがあるのです。もともと佛教の「佛」も非(あら)ずという意味があります。

「一如」という言葉は一つの如しですが、一つではありません。二つでもないから不二とも言えます。言葉(分別智)では表現できません。

「不可思議」というのは考えてはいけない(不可)ということですから、思慮分別したり、言葉で説明してはいけないのです。人間の分別智(知恵)ではおよばない無分別智(智慧)の領域があります。

歎異抄には「総じてもって存知(ぞんじ)せざるなり」と書かれている箇所が2箇所あります。これは、私はすべてを末通してあきらかに見る智慧はない愚かな人間だから、なにが善といえるのか、なにが悪といえるのか、私には全く分かりませんということです。

ですから「分かりません」というのが答えになります。

「分かりません」とは、「分けられません」ということと同義になります。本来一つにつながっているものは分別できないということです。

多くの知識をえて、理解し、自分中心のものさし(量)で分別し、自分にとって都合の良いものと、都合の悪いものに分け(分別)、都合の良いものを自分のものとして、都合の悪いものを排除しようとする分別智は、無明の闇に潜む刃(やいば)ともなっています。生死勤苦(しょうじごんく)の根本でしょう。

親鸞さまの文章をよく読めば、本質的な行為(力・はたらき)の主体が自分自身ではなく、阿弥陀さまになっています。私たち凡夫は無意識のうちに「私が」「私の」というように自分が中心となり、自分を行為の主体としています。徹頭徹尾自分中心でしかものごとを考えられません。自分に執着している私自身のことです。

お聖教を精読するときには古語辞典や漢和字典が必要です。現代と同じ言葉でも鎌倉時代と現代とでは意味が異なったりするからです。一語一語逐語読みが必要となります。

また、白川静さんの『字統』を読むと漢字の成り立ちは、儒教という民俗宗教と深い関係にあることが分かります。インドの言葉から漢訳された言語を、もう一度大乗仏教本来の義として味わおうとされた先人達がいます。大乗仏教が普遍宗教の所以(ゆえん)です。

親鸞さまの門弟に対するお手紙のなかでは、単なる儀礼ではない尊敬語・丁寧語が至るところにでてきて、門弟を、いのちの尊厳性において分け隔てのない、御同朋(おんどうぼう)として敬われていたことがよく分かります。

お手紙第3通の主語は複数形になっていて、「お互いの人間関係のなかで敬いあう」ことの大切さを懇切丁寧な言葉で書かれています。そもそも御(おん)は尊敬を付け加える語で、お互いの人間関係を御同朋(おんどうぼう)と尊敬の語を加えて呼び合うような、対等で平等な関係にしましょうという意味となります。

結局、私自身が親鸞さまにお遇いしたと言えるのは、専門的な仏教の知識が増えて、専門的な知識を理解したということではなく、お遇いしたから結果として私自身の生き方が変わったということが、親鸞さまにお遇いしたということになります。

「ただ念仏して、阿弥陀さまの願いに導かれて生きる」しかありません。

思いつくままに記しました。
ブログを書くには、まだ時間がかかりそうです。
しかし実を結ぶ結論はすでに与えられています。書けなくてもよいのです。

南無阿弥陀仏

2022.05.03
2023.04.18

写真は下記の図録から掲載しました

特別展図録

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