親鸞さまに学ぶ

親鸞聖人の言葉を味わいます

慚愧(ざんぎ)よく衆生(しゅじょう)を救(すく)う

学んだ証(あかし)

親鸞さまは
言葉で表現できないことを、限界まで言葉で表現しようとされました。

宗教弾圧のなかで著された文言には重さがあり、その文言を味わうには時間がかかります。そして読むほどに問いが深まります。

親鸞さまの生き方に学び、自分自身の生き方や人間関係のありようを問い直します。

多くの知識をえて理解したとしても問い直すことがないなら、学んだことにはならないでしょう。

学んだ証(あかし)はなにかが変わることです。

 

慚愧(ざんぎ)よく衆生(しゅじょう)を救(すく)う
1.意訳                  
阿闍世王(あじゃせおう)よ、お釈迦さまをはじめ諸々の仏さまは、常に次のように説いておられます。

二つの真実の法があって、よく人びとを救います。
一つには慚(ざん)の心であり、二つには愧(き)の心です。

慚の心がある人は、自ら罪をつくらなくなります。

愧の心がある人は、人に罪をつくらせないようになります。

慚は自らの罪を恥じる心です。
愧は自分の罪を告白して、人びとに向かって罪の許しを請う心です。

慚は人びとに向かって恥じる心であり、愧は眼には見えないけれども、私たちを見守っていてくださる、菩薩(ぼさつ)や仏陀(ぶつだ)に恥じる心です。

慚愧(ざんぎ)のないものは人とはいえません。そのような人を畜生といいます。
慚愧があるから、よく父母や自分を導き育ててくれた、先生や先輩をつつしみ敬うようになります。

慚愧があるから、父母・兄弟・姉妹があるのです。
阿闍世王が十分に慚愧の心をいだいておられるのは、実に善いことです。

2.解読
恥ずかしいというのは単に個人の心の問題なのではありません。人に向かい、世のなかに向かい、仏陀にも恥じることです。

「人に罪をつくらせなくなります」とは人が罪を犯しそうになったら罪であることを指摘するようになるということです。同じ仏弟子だからこそお互いに罪を指摘しあうことができます。そんな対等で平等な関係を御同朋(おんどうぼう)といいます。

罪とは仏の教えを聞いてあきらかになる五逆や謗法の罪ですから、仏の教えを聞かなければ認識できない罪です。

慚愧の心も恭敬の心(くぎょうのしん)も、無慚無愧(むざんむぎ)の私にはもともとないものです。私は如来から賜った弥陀回向の御名(みな)のはたらきだと味わっています。

恭敬の心(くぎょうのしん)もまた如来から賜った心、すなわち信心です。
慚愧は回心(えしん)・こころをおもいかえす・こころをひるがえす、はたらきとなります。

また慚愧があるから歓喜(かんぎ)があり、歓喜があるから慚愧がある不可分の関係です。

どちらも凡夫の煩悩から生じたものではなく、仏のはたらきによるものです。

高僧和讃
不退(ふたい)のくらゐすみやかに
えんとおもはんひとはみな
恭敬の心(くぎょうのしん)に執持(しゅうじ)して
弥陀の名号(みょうごう)称(しょう)すべし
浄土真宗聖典(註釈版)579頁
※恭敬の心:つつしみうやまうこと。ここでは他力の信心のこと。

正像末和讃
無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向(えこう)の御名(みな)なれば
功徳(くどく)は十方にみちたまふ
浄土真宗聖典(註釈版)617頁

 

2.現代語訳

王さま仏(ほとけ)がたは常に次のように説いておられます。
二つの、清らかな法があって、衆生を救うことができます。

その法とは、一つには慚(ざん)であり、二つには愧(ぎ)であります。
慚とは自分が二度と罪をつくらないことであり、愧とは人に罪をつくらせないことです。

また慚とは心に自らの罪を恥じることであり、愧とは人に自らの罪を告白して恥じることです。

また慚とは人に対して恥じることであり、愧とは天に対して恥じることです。
これを慚愧といいます。

慚愧のないものは人とは呼ばず、畜生と呼びます。

慚愧があるから父や母、師や年長のものを敬い、慚愧があるから父や母、兄弟姉妹の関係もたもたれるのです。

今王さまが十分に慚愧の心をいだいておられるのは、実に善いことです。

顕浄土真実教行証文類(上)文庫本 原文・現代語訳 本願寺出版社485頁

 

3.浄土真宗聖典(註釈版)巻末註                                   
罪を恥じること。慚と愧にわけて種々に解釈する。慚は自ら罪をつくらないこと、愧は他人に罪をつくらせないようにすること。また、慚は心に自らの罪を恥じること、愧は他人に自らの罪を告白して恥じ、そのゆるしを請うこと。また、慚は人に恥じ、愧は天に恥じること。また、慚は他人の徳を敬い、愧は自らの罪をおそれ恥じること。

浄土真宗聖典(註釈版)1475頁

 

4.原文
大王、諸仏世尊(しょぶつせそん)つねにこの言を説きたまはく、
二つの白法(びゃくほう)あり、よく衆生を救(たす)く。
一つには慚(ざん)、二つには愧(き)なり。
慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。
慚はうちにみづから羞恥(しゅうち)す、愧は発露(ほつろ)して人に向かふ。
慚は人に羞(は)づ、愧は天に羞(は)づ。
これを慚愧(ざんぎ)と名づく。
無慚愧(むざんぎ)は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。
慚愧あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長(しちょう)を恭敬(くぎょう)す。
慚愧あるがゆゑに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。
善きかな大王、つぶさに慚愧あり。
浄土真宗聖典(註釈版)275頁

5.語句

発露(ほつろ):犯した罪を隠さず告白すること。
天:第一義天の菩薩や仏陀。『仏説無量寿経』今日天尊行如来徳の天尊のこと。
  五天の中の第一義天である釈尊を示す。浄土真宗聖典(註釈版)279頁脚注
無慚愧(むざんぎ):無慚無愧(むざんむぎ)のこと。 
恭敬(くぎょう):つつしみうやまうこと。

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