親鸞さまに学ぶ

親鸞聖人の言葉を味わいます

出世の本懐(しゅっせのほんがい)

阿弥陀さまとお釈迦さまの関係は?
正信念仏偈
如来所以興出世 唯説弥陀本願海
如来、世に興出したまふゆえは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり。

意訳
お釈迦さまをはじめとする諸々の仏が、この迷いの世に出現された目的は、ひとえに阿弥陀さまの願いを説くためなのです。

浄土和讃 諸経讃
久遠実成(くおんじつじょう)阿弥陀仏
五濁の凡愚(ぼんぐ)をあはれみて
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)としめしてぞ
迦耶城(がやじょう)には応現(おうげん)する
浄土真宗聖典(註釈版)572頁

意訳
永遠の昔よりまことに仏と成られている阿弥陀仏が、煩悩で濁った世に迷う愚かな私たち凡夫を憐(あわ)れんで、釈迦牟尼仏の姿となって迷いの世界に出現されたのです。

語句
久遠:永遠のこと。
釈迦牟尼仏:お釈迦さまのこと。
迦耶城:釈迦族都城であるカピラヴァストのこと。
応現:衆生を救うためにいろいろに姿を変えて出現するめこと。

下記の『天上天下唯我独尊』もあわせてご覧下さい。

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利他(りた)の力(はたらき)

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利他の力(はたらき)


意味
利他(りた)とは身を煩(わずら)わせ、心を悩(なや)ませながら生きている私たちを救うために、苦しみの根本を抜き、真の喜びを与えようとはたらいている阿弥陀さまの心。

利他真実(りた)の信心。真(まこと)の喜びとは、一人で独占できるものではなく、一人で完結もすることもない、いのちあるものすべてと分かち合うことのできる喜びだと味わっています。

解説
他力・本願力と同じ意味で、他力とは利他の力(はたらき)をあらわします。利他とは他を利することであり、自(阿弥陀さま)が他(私たち衆生)に真実の利益である南無阿弥陀仏の名号を施与(せよ)することです。

名号のはたらきによって浄土に往生しさとりの智慧(ちえ)をえて、大慈悲心をおこし迷いの世界に還(かえ)り苦悩の衆生を救済する。そのすべてが利他(りた)のはたらきです。

いのちはつながりあって相互に関係し合いながら存在しているのですから、私一人の救いでは完結しません。いのちあるものすべてが救われるときに私の救いも完結します。私一人の救いで完結するのであればそれも自己中心の救いということになります。

仏教の根本は自利利他(じりりた)です。自らの幸せが即ち他の幸せであり、他の幸せが即ち自らの幸せとなる、そのような幸せです。

阿弥陀さまは悩み苦しむ私たち衆生を救うために、苦しみの根本を抜き、真の喜びを与えようと願われました。そして功徳の全てを南無阿弥陀仏の名号におさめて、私たちに平等に与えて下さいました。

悩みの多い人生ですが、阿弥陀さまの願いを聞き、お念仏を称え、利他の力(はたらき)におまかせして多くの仲間とともに生きて往くことを、お勧めくださったのが親鸞聖人です。

語句
利:真実の利益すなわち南無阿弥陀仏の名号のこと。
他:阿弥陀さまから見た私たち衆生のこと。
真実之利:真実の利益。阿弥陀仏の本願名号によって得る利益をいう
            
出拠 親鸞聖人『教行信証 
「群萌(ぐんもう)を拯(すく)ひ恵(めぐ)むに真実の利をもつてせんと欲すなり。」註釈版聖典135頁
「これを利他真実(りたしんじつ)の信心と名づく。」 註釈版聖典235頁

「自利(じり)は阿弥陀の仏になりたまひたるこころ、利他(りた)は衆生を往生せしむるこころ」註釈版聖典562頁 異本左訓                                                    

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教行信証(きょうぎょうしんしょう)を拝して

京都国立博物館

特別展『図録』

教行信証を拝して

お念仏を称えながら今年1年を振り返ってとくに印象に残ったことは、京都国立博物館で開催された、
親鸞聖人生誕850年特別展『親鸞 生涯と名宝』で、
教行信証の坂東本(国宝)、高田本(重要文化財)、西本願寺本重要文化財)を見たことです。

教行信証3本が同時に展示されたことは、今までにはありませんでした。坂東本を見たのは2回目で高田本、西本願寺本は初めてです。

坂東本は御直筆の草稿本ですから未完成で、墨で加筆訂正した箇所が実に多くあり、どのような思索を経て執筆されたのが、そのご苦労の過程を偲ぶことができる大切な聖教です。

今回の展示では化身土文類を直接見ることができとても感動しました。購入した『図録』を見ながら今ふり返っていますが、展示では見ることのできなかった、行文類の正信念仏偈を見ると多くの箇所が墨で訂正されています。特に「獲信見敬大慶喜」は大きく墨で塗りつぶされています。何度も加筆訂正されたのでしょう。

1224(元仁元)年52歳のときには、草稿本はほぼできていたといわれており、75歳のころには門弟に書写を許されていますが、「獲信見敬大慶喜」の部分は86歳以降に加筆訂正されたようです。そう考えると正信念仏偈は生涯をかけて私たちに遺してくださった、本願念仏のうただといえます。

また教行信証坂東本を見ると、親鸞さまは一字一字、一語一語をいかに大切にされたのかよく分かります。

文字だけではなく、人に対して言う言葉にも、言うべきではない言葉があり、心の内に思う言葉にも、思うべきではない言葉があるとお考えになっていたのでしょう。そして自分の文字や言葉には責任を持たれました。

門弟に対しても極めて丁寧な言葉で語りかけられたのだろうと思います。門弟に書かれたお手紙を読めばよくわかります。

いま私自身が問われているのは、自らの文字や言葉に責任を持てるのかということです。そして文字や言葉の背景にある私たち自身の生き方や、人間関係のあり方も問われてきます。800年前に著された教行信証現代社会のありようが問われているのです。

親鸞さまの場合は、生涯お念仏を称えて生きられましたが、それが結果として言葉や文字、生き方として顕れてきたのだろうと思います。そう味わうと教行信証親鸞さまの生き方を顕す聖教だともいえます。

京都国立博物館特別展では鏡の御影(国宝)も見ることができました。これも2回目です。親鸞さま70歳のころの御影だと言われています。恵信尼さま・覚信尼さまもこの御影をご覧になった可能性があります。

特別展は正信念仏偈を具現化した展示形式でした。そしてなにより大切なことは名号で始まり名号で終わっていたということです。

特別展『図録』は販売終了となっており新書を手に入れるのは難しい状況です。今一度、『図録』に目を通して、立教開宗の意味を考えるとともに、なぜ教行信証を著されたのかをしずかに聞思したいと思います。

末法五濁(まっぽうごじょく)の世に生きる
苦悩の群萌(ぐんもう)を拯(すく)う教え
南無阿弥陀仏
2023年12月9日

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厭(いと)うしるし

親鸞聖人のお手紙第2通(部分)
1.意訳
私たちが煩悩をそなえた人間であるからといって、自分の心にまかせて、身にもしてはならないことをゆるし、口にも言ってはならないことをゆるし、心にも思ってはならないことをゆるし、どのようなことでも、自分の心のままにすればよいと言いあっている人がいるようですが、それはとても心の痛むことです。      

無明(むみょう)という酒の酔いも醒めていないのにさらに酒をすすめ、煩悩の毒も消えていないのに、ますます煩悩の毒をすすめるようなものです。

南無阿弥陀仏という薬があるのだから煩悩の毒を好みなさい、というようなことはあってはならないことだと思います。

阿弥陀仏のお名前を聞き、お念仏を称えるようになって久しくなっておられる人々は、この世の悪いことを厭(いと)うしるしや、この私自身の悪いことを厭(いと)い捨てようとお思いになるしるしも、自ずとあらわれてくるものだと思ってください。

2.語句           
※ゆるす:許(ゆる)す。赦(ゆる)す。緩(ゆる)す。ゆるめる。ゆるやかにする。自分の心・本能にまかせて生きようとすること。お手紙のなかでは放逸(ほういつ)と書かれています。
※厭(いと)う:嫌(きら)うは、好きでないものを積極的に排除する意だが、厭(い と)うは消極的に身を引いて避けるの意。遠離(おんり)離れ遠ざかること。
※しるし:徴・験・証・あかし。          
※無明(むみょう)の酒:苦しみの根本。智慧のない愚かさ。自分中心の世界に酔って、ありのままにものごとを見ることができない人間の愚かな分別智(ふんべつち)。 
※毒私たちの心は貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三つの毒を要素として構成されています。貪欲(とんよく)むさぼり。瞋恚(しんに)いかり・憎しみ。愚痴(ぐち)智慧のないおろかさで酔いをともなう根本的な毒。凡夫の自性である本能は自分の欲望と衝動にまかせて生きたいということ。憎しみは嫉(そねみ)み憎しむ、妬(ねた)み憎しむこと。自他を比較したときに嫉(そねみ)み憎しみ、妬(ねた)み憎しむ心が生じます。 

3.味わい
親鸞聖人のお手紙は尊敬語や丁寧語が多く用いられ、聖人の門弟に対する尊敬の心が伝わってきます。※門弟とは同門の弟子という意味で、同じ法然聖人の弟子という意味です。
親鸞聖人のお手紙を読むとき、自分自身の生き方がとても恥ずかしく思えてきます。
親鸞聖人のお言葉に学ぶと、自分自身のありようが深く問われてきます。

欲望と衝動にまかせて本能のまま生きたいというのが、誤魔化しようのない私自身の本性であることがあきらかになるにつれて、自分の心にまかせるのではなく、阿弥陀仏の心にまかせて生きようと願うようになります。お手紙の第4通では「こころをひるがえす」という言葉で書かれています。回心(えしん)ともいいます。

このお手紙は自分がつくる毒に苦しむ私自身のあり方に、問題があるからいただいた手紙だと味わっています。
ですから他人に対して説明することではありません。

4.原文

親鸞聖人御消息二
煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。

酔ひもさめぬさきに、なほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。

仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、この世(※異本)のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ。
浄土真宗聖典(註釈版)735頁

 

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「相互の関係性」から生じる苦悩

1.「相互の関係性」から生じる苦悩

南無阿弥陀仏智慧(ちえ)の名号

 『唯信鈔文意』

以下、煩雑な言葉がならびますが、結論はすべて名号におさまります。 

智慧(ちえ)の名号を称える者は、自ずと無分別智(むふんべつち)の世界に導かれるからです。

②人間関係の苦しみ

私たちの苦しみは人間関係に起因することが多くあります。
差別・偏見・抑圧・暴力・戦争・虐待・いじめ・ハラスメント・DV等。人間関係が上下関係、利害関係、優劣の関係、強弱の力関係、排除の関係であればどこかで対立が生じ、憎しみが生まれます。

人間関係が対立の関係ではなく、お互いに対等で平等な関係であることをめざすのが仏教であるように思います。この視点を見失っていたのが寺院衰退の一因ともなっているように思います。それは私自身の深い反省でもあります。

人間関係で悩む多くの人たち苦悩に応えることができていない教団の現状があります。老病も介護や生活苦などの人間関係の苦悩もともないます。「関係性」から生じる苦悩は「関係性」全体を見直す必要があります。そこには縁起を説く仏教の救いがあります。

以下は私自身の見解ですから間違っているかもしれません。

 

③縁起 因縁生起(いんねんしょうき)
仏教の根本真理は因縁生起にあります。縁起・因縁生起とは次のようなことです。

この世に存在するすべてのものは、お互いに関わり合って存在している。

 

④連続無窮(れんぞくむぐう)のいのち

浄土真宗ももちろんこの根本真理で成り立っています。十方衆生はお互いに網の目のようにつながりあって、存在しています。自分一人の救いでは完結しません。ですから、迷いの世界に還(かえ)り衆生を救う衆生利益(しゅじょうりやく)が、とても大切なことになります。縁起・関係性を見失ったらそれはもはや仏教とはいえないのでしょう。

浄土は自他一如(じたいちにょ)、一如平等(いちにょびょうどう)、怨親平等(おんしんびょうどう)の世界ですが、他とは私以外のいのちあるもの(十方衆生)と考えれば十方衆生のつながりあいを、すべて見通せるような無量光明の世界だと味わっています。

⑤無分別智(むふんべつち)

無量光明の世界とは、分別して量(はか)ることが無意味な智慧(ちえ)すなわち無分別智の世界ということです。

仏のさとりを得るということは智慧=無分別智(むふんべつち)を得るということです。私たちの知恵は分別する知恵ですから、自分と他人、敵と味方をはっきり分別して自分にとって都合のよい人を味方として親しみ愛し、自分にとって都合の悪い人を敵とみなし怨(うら)み憎しんで排除しようとします。そこに人間関係の対立が生じます。その最たるものが戦争です。

怨親平等(おんしんびょうどう)の世界

智慧=無分別智(むふんべつち)を得るとあらゆるものが、分別の無いつながりあいのなかで成り立っていることが如実に見えます。分別することが無意味になる世界です。
ですから自分と他人、敵と味方と分別することも無意味だと気づくことになります。
自他一如、一如平等、生死一如、怨親平等といろんな言葉がありますが、別のことを言っているのではないと思います。一如ということをいろんな相(すがた)で示しているので本質は同じでしょう。

智慧の名号を称える者は、自ずと無分別智(むふんべつち)の世界に導かれます。

⑥倶(とも)に出遇(であ)う世界

人間がお互いに対立する関係を厭(いと)い離れて、お互いに平等に敬いあうことのできる浄土。その世界こそ人と人が尊厳をもってお互いに出遇(であ)うことのできるただ一つの処(ところ)なのでしょう。そのような世界をともに願い生まれようというのが、人間にとってとても大切なことだと親鸞聖人はいわれています。

また、そのようにお互いに相手を認めあう世界を相照(そうしょう)の世界ともいいます。相照(そうしょう)とはお互いに照らしあい、お互いの尊厳を認めあう関係性の世界です。

 

衆生を救済する力(はたらき)

浄土に往生したものは、一子地(いっしじ)を得て、いのちあるすべてのものを一人子(ひとりご)のよう慈しみむ大慈大悲心(だいじだいひしん)をもって、浄土を出て迷いの世界に還(かえ)り、衆生を救済することになります。それらのすべて阿弥陀如来の本願の力(はたらき)によるものです。

すべてが一つにつながりあって一如平等(いちにょびょうどう)だからこそ、十方衆生すべてが救われなければ、一人の救いも完結しない。すべての者を一人も残さず救うという、阿弥陀如来の摂取不捨の願いが真実なのです。浄土真宗が究極の大乗仏教(だいじょうぶっきょう)であるといわれている所以(ゆえん)です。

以下、親鸞聖人の言葉から「相互の関係性」考えてみます。いままで縁起と浄土真宗の関係について考察されたものは少ないように思います。

2.親鸞聖人の言葉

歎異抄後序

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。

阿弥陀如来が、はかり知ることができないほどの長い間、思案された願いをよくよく案じてみれば、ひとえにこの親鸞一人を救うためでありました。(意訳)
と記されています。

一見身勝手な言葉のように思われますが、お念仏は親鸞聖人一人が救われるということは十方衆生すべてが救われる名号法だということでしょう。

一人のなかに十方衆生を見て、十方衆生のなかに一人を見る、一即一切(いっさいそくいち)、一即一切(いちそくいっさい)の華厳の世界観です。

重々無尽の縁起(じゅうじゅうむじんのえんぎ)ともいいます。

歎異抄5条

一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。

いのちあるものすべては、幾度となく生まれ変わり死に変わりしてきたなかで、お互いに父母・兄弟・姉妹(ふぼ・きょうだい・しまい)としてつながりあっているのです。(意訳)

教行信証 化身土文類

原文

仏経(ぶっきょう)にのたまはく、《識体六趣(しきたいろくしゅ)に輪廻(りんね)す、父母(ふぼ)にあらざるなし。生死(しょうじ)、三界(さんがい)に変易(へんやく)す、たれか怨親(おんしん)を弁(わきま)へん》と。またのたまはく、《無明慧眼(むみょうえげん)を覆(おお)ふ、生死(しょうじ)のなかに来往(らいおう)す。往来(おうらい)して所作(しょさ)す、さらにたがひに父子(ふし)たり。怨親(おんしん)しばしば知識(ちしき)たり、知識(ちしき)しばしば怨親(おんしん)たり》と。ここをもつて沙門(しゃもん)、俗(ぞく)を捨てて真(しん)に趣(おもむ)く。庶類(しょるい)を天属(てんしょく)に均(ひと)しうす。栄(えい)を遺(す)てて道(どう)に即(つ)く。含気(がんき)を己親(こしん)に等(ひとし)しとす。[あまねく正(ただ)しき心を行(ぎょう)じて、あまねく親(した)しき志(こころざし)を等(ひと)しくす。
また道(どう)は清虚(しょうこ)を尚(とうと)ぶ、なんぢは恩愛(おんない)を重くす。法は平等(びょうどう)を貴(とうと)ぶ、なんぢは怨親(おんしん)を簡(えら)ぶ。

現代語訳
顕浄土真実教行証文類(上)本願寺出版社
「煩悩が智慧の眼をおおい、生まれ変わり死に変わりして迷いの世界をさまようのである。さまよい続ける中で結ぶ数多くの縁により、お互いに父ともなり、子ともなる。また、敵も味方も、しばしば友となるのであり、友もしばしば、敵にもなり味方にもなるのである。」と説かれている。
このようなわけであるから、修行者は俗世間ょ離れて仏道に入り、すべての衆生を肉親と同じように敬うのである。この世の栄誉を捨ててさとりの道に入り、あらゆる衆生を自分の父や母と同じように見なすのである。
また、道はすべてにとらわれのない心を尊ぶのに、あなたは肉親の情を重んじる。法はすべてもものの平等を尊ぶのに、あなたは敵か味方かを区別する。

語句 
識体(しきたい):心の主体。庶類(しょるい):衆生のこと。
天属(てんしょく):肉親。含気(がんき):衆生、有情に同じ。
己親(こしん):自分の親。

 

 

解読 普遍的な人間関係 御同朋(おんどうぼう)

怨親平等親鸞聖人の言葉から考察したものはあまりないように思います。またこの

化身土文類のこの言葉に言及した書籍も見たことがありません。

基本的趣旨は歎異抄5条と同じだと思います。

仏教と儒教道教の違いを明確にして、仏教が倫理道徳を超えた普遍的な救いであることを示されいます。基本的趣旨は歎異抄と同じだと思います。

親鸞聖人は御同朋(おんどうぼう)を一切衆生まで広げてお考えでしたが、親鸞聖人ご在世の頃は儒教道教の影響が非常に強かった時代ですから、そのなかで血縁関係を超えた普遍的な人間関係である御同朋を語られたのでしょう。

同胞(どうほう)ではなく同朋(どうぼう)です。同胞と同朋、音は似ていても意味はまったく異なります。

すべてのいのちは、お互いに一つにつながりあっている一如平等のいのちなので、敵味方と分けることは本来できないものです。

めざすべき浄土が怨親平等(おんしんびょうどう)の世界であることを示されています。

 

3.縁起   因縁生起(いんねんしょうき)
①『釈尊の教えとその展開 インド篇』本願寺出版社  

「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは仏を見る」
この世に存在するすべてのものは、お互いに関わり合って存在している。

 

此あるが故に彼あり。此生ずるが故に彼生ず。
此なきが故に彼なし。此滅するが故に彼滅す。

ここでは此と彼で表現されているが、要するにあるものと他のものとの関係性をいうのであって、他の何物とも関わりなく条件づけられずに存在するものはないということである。

時間的にも空間的にも、また存在論的にも認識論的にも、あるいはまた論理的にも、あらゆるものは関係し合って成り立つものであり、ここでの此と彼とのようであつて、自ら単独で完結しているものはないというとらえ方である。

 

 

②『ブッダ入門』中村元著 春秋社 

ありとあらゆるものは因縁によって成立している。
つまり神さまのような人が一人いて、その人がすべてを創造するというのではない。

私なら私という一人の人間がここにいる。そこには無数の条件が加わっているのです。
その条件のそれぞれが成立する背後には、また無数の条件があった。
さらに、それらの背後には、また無数の条件がある。

それらが働いて、個々の人間の存在を成立させているのです。
人間ばかりではありません。この世の出来事のひとつひとつが、無数の条件によって成り立っている。これが因縁の教えです。ときに区別する場合には、「因」が、主な原因、「縁」は副次的な原因という解釈もされています。

そういう因と縁とが加わって、世のなかのありとあらゆるものが成立しているという因縁の教えを、アッサジは説いたのです。
そこで舎利弗と目連の二人は、はっと目が覚めて、それで仏教に帰依したと伝えられています。

 

4.浄土真宗と縁起

浄土真宗と祈り』稲城選恵著 永田文昌堂
①要旨

縁起、空を否定すると仏教そのものの否定となる。それ故、他力を否定することは仏教そのものを否定することになる。

 

②本文

菩提流支(ぼたいるし)の他力の訳を実叉難陀は縁起とか依他と訳している。更に原語によると、paratantraとなっている。paratantraは流支以前の訳の曇無識のparabalaとは異なる。

parabalaはotner powerと訳され、他力の現在の英訳の如くである。paratantraは依他、縁起と訳すのが適訳といわれる。それ故、菩提流支の他力の原語は正しく縁起、依他の仏教の根源的立場を意味するものといわれる。

このことは宗祖の『教行晢証』の「信巻」の行信結釈の文に、「しかれば若しは行、若しは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまうところに非ること有ることなし、因なくして、他の因有るには非るなり(※)」とあり、『往生論註』「浄入願心章」の文にょって結ばれている。

この結びの文は龍樹菩薩『中論』「観因縁品』にあるが如く、無因計、他因計、自因計、共因計の四性計の否定である。即ち空なることを意味する。先哲はこの行信結釈の文は他力回向をあらわすといわれている。

これによると他力は縁起、空なることを場としていることが知られる。

縁起、空を否定すると仏教そのものの否定となる。それ故、他力を否定することは仏教そのものを否定することになる。

③現代語訳

顕浄土真実教行証文類(上)本願寺出版社

(※)このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。
如来より与えられた行信(ぎょうしん)が往生成仏(おうじょうじょうぶつ)の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。

 

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慚愧(ざんぎ)よく衆生(しゅじょう)を救(すく)う

学んだ証(あかし)

親鸞さまは
言葉で表現できないことを、限界まで言葉で表現しようとされました。

宗教弾圧のなかで著された文言には重さがあり、その文言を味わうには時間がかかります。そして読むほどに問いが深まります。

親鸞さまの生き方に学び、自分自身の生き方や人間関係のありようを問い直します。

多くの知識をえて理解したとしても問い直すことがないなら、学んだことにはならないでしょう。

学んだ証(あかし)はなにかが変わることです。

 

慚愧(ざんぎ)よく衆生(しゅじょう)を救(すく)う
1.意訳                  
阿闍世王(あじゃせおう)よ、お釈迦さまをはじめ諸々の仏さまは、常に次のように説いておられます。

二つの真実の法があって、よく人びとを救います。
一つには慚(ざん)の心であり、二つには愧(き)の心です。

慚の心がある人は、自ら罪をつくらなくなります。

愧の心がある人は、人に罪をつくらせないようになります。

慚は自らの罪を恥じる心です。
愧は自分の罪を告白して、人びとに向かって罪の許しを請う心です。

慚は人びとに向かって恥じる心であり、愧は眼には見えないけれども、私たちを見守っていてくださる、菩薩(ぼさつ)や仏陀(ぶつだ)に恥じる心です。

慚愧(ざんぎ)のないものは人とはいえません。そのような人を畜生といいます。
慚愧があるから、よく父母や自分を導き育ててくれた、先生や先輩をつつしみ敬うようになります。

慚愧があるから、父母・兄弟・姉妹があるのです。
阿闍世王が十分に慚愧の心をいだいておられるのは、実に善いことです。

2.解読
恥ずかしいというのは単に個人の心の問題なのではありません。人に向かい、世のなかに向かい、仏陀にも恥じることです。

「人に罪をつくらせなくなります」とは人が罪を犯しそうになったら罪であることを指摘するようになるということです。同じ仏弟子だからこそお互いに罪を指摘しあうことができます。そんな対等で平等な関係を御同朋(おんどうぼう)といいます。

罪とは仏の教えを聞いてあきらかになる五逆や謗法の罪ですから、仏の教えを聞かなければ認識できない罪です。

慚愧の心も恭敬の心(くぎょうのしん)も、無慚無愧(むざんむぎ)の私にはもともとないものです。私は如来から賜った弥陀回向の御名(みな)のはたらきだと味わっています。

恭敬の心(くぎょうのしん)もまた如来から賜った心、すなわち信心です。
慚愧は回心(えしん)・こころをおもいかえす・こころをひるがえす、はたらきとなります。

また慚愧があるから歓喜(かんぎ)があり、歓喜があるから慚愧がある不可分の関係です。

どちらも凡夫の煩悩から生じたものではなく、仏のはたらきによるものです。

高僧和讃
不退(ふたい)のくらゐすみやかに
えんとおもはんひとはみな
恭敬の心(くぎょうのしん)に執持(しゅうじ)して
弥陀の名号(みょうごう)称(しょう)すべし
浄土真宗聖典(註釈版)579頁
※恭敬の心:つつしみうやまうこと。ここでは他力の信心のこと。

正像末和讃
無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向(えこう)の御名(みな)なれば
功徳(くどく)は十方にみちたまふ
浄土真宗聖典(註釈版)617頁

 

2.現代語訳

王さま仏(ほとけ)がたは常に次のように説いておられます。
二つの、清らかな法があって、衆生を救うことができます。

その法とは、一つには慚(ざん)であり、二つには愧(ぎ)であります。
慚とは自分が二度と罪をつくらないことであり、愧とは人に罪をつくらせないことです。

また慚とは心に自らの罪を恥じることであり、愧とは人に自らの罪を告白して恥じることです。

また慚とは人に対して恥じることであり、愧とは天に対して恥じることです。
これを慚愧といいます。

慚愧のないものは人とは呼ばず、畜生と呼びます。

慚愧があるから父や母、師や年長のものを敬い、慚愧があるから父や母、兄弟姉妹の関係もたもたれるのです。

今王さまが十分に慚愧の心をいだいておられるのは、実に善いことです。

顕浄土真実教行証文類(上)文庫本 原文・現代語訳 本願寺出版社485頁

 

3.浄土真宗聖典(註釈版)巻末註                                   
罪を恥じること。慚と愧にわけて種々に解釈する。慚は自ら罪をつくらないこと、愧は他人に罪をつくらせないようにすること。また、慚は心に自らの罪を恥じること、愧は他人に自らの罪を告白して恥じ、そのゆるしを請うこと。また、慚は人に恥じ、愧は天に恥じること。また、慚は他人の徳を敬い、愧は自らの罪をおそれ恥じること。

浄土真宗聖典(註釈版)1475頁

 

4.原文
大王、諸仏世尊(しょぶつせそん)つねにこの言を説きたまはく、
二つの白法(びゃくほう)あり、よく衆生を救(たす)く。
一つには慚(ざん)、二つには愧(き)なり。
慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。
慚はうちにみづから羞恥(しゅうち)す、愧は発露(ほつろ)して人に向かふ。
慚は人に羞(は)づ、愧は天に羞(は)づ。
これを慚愧(ざんぎ)と名づく。
無慚愧(むざんぎ)は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。
慚愧あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長(しちょう)を恭敬(くぎょう)す。
慚愧あるがゆゑに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。
善きかな大王、つぶさに慚愧あり。
浄土真宗聖典(註釈版)275頁

5.語句

発露(ほつろ):犯した罪を隠さず告白すること。
天:第一義天の菩薩や仏陀。『仏説無量寿経』今日天尊行如来徳の天尊のこと。
  五天の中の第一義天である釈尊を示す。浄土真宗聖典(註釈版)279頁脚注
無慚愧(むざんぎ):無慚無愧(むざんむぎ)のこと。 
恭敬(くぎょう):つつしみうやまうこと。

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親鸞さまの言葉に学ぶ

「親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞-生涯と名宝」公式図録

親鸞さまに学ぶ」。このブログを書こうと思うのですが、なかなか、書くことができません。

親鸞さまの言葉は大変丁寧な言葉です。人の尊厳性を傷つけるような言葉を使わないように慎重に言葉を選ばれたのでしょう。
ですからお言葉を読むときには、言の葉を一枚一枚拾い集めるような丁寧な読み方が必要になります。

また無駄な言葉がありません。書かれている言葉一語一語に何らかの意味があります。 

教行信証坂東本(浄土真宗大谷派所蔵・国宝)の原本を京都市美術館で見たことがあります。正信偈のページが開かれていたのですが、何度も訂正したあとがあります。一字一字をどれだけ大切にされたかが伝わってきました。
また2023年京都国立博物館展覧会の図録『親鸞 生涯と名宝』にも教行信証の国宝本が掲載されています。

最近、教行信証を読むときも、お手紙を読むときも、お聖教は他人に説明や解説ををする為に読む文章ではないと思うようになりました。
私自身のありように根本的な問題があるから、お書きいただいた言葉なのではないかと思います。

よくよく案ずれば、お聖教は私に対して書かれたお言葉です。私に対する法話です。法話(法・本願の話し)は、話すものではなく聞くものです。

お聖教を読めば読むほど、自分自身のありようが問われてきて、恥ずかしくなります(慚愧)。
恥ずかしいままに、本当の人間としての生きることができる喜びがあります(歓喜)。
慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)は一枚の紙の表裏の関係です。切り離せません。悲しみと慶びも同じように表裏の関係です。表裏を切り離した言葉ほど虚しいものはありません。

「悲喜の涙」を抑えて由来の縁を註(しる)す」と『教行信証』に書かれていますが悲喜交流(ひきこうる)・悲喜こもごもだといえます。

よくよく案じれば慚愧も歓喜も回心(えしん)も本願のはたらきによるものでしょう。凡夫が自身で起こすことのできる心ではありません。慚愧や歓喜という言葉を知っていたからといって慚愧・歓喜したことにはなりません。 

人間は最初に意(こころ)の内で言葉を用いて考えます。考えた言葉は無意識のうちに、口や身体の行動にも自ずと発露(はつろ)します。ですから、意(こころ)の内で、どのような言葉で考えるのかが非常に大切なことになります。

仏の教えを聞くと、意(こころ)の内でも使うべき言葉と、使うべきではない言葉があることに気づきます。

親鸞さまは自分の言葉に責任をもたれました。厳しく弾圧され、いのちを奪われる危険もあるなかで「愚禿釋親鸞」「親鸞におきては」と名告って、文字を記されています。私たちが読んでいる正信偈は、もし公表されれば弾圧を受けるかもしれない状況で書かれた言葉です。

私の生きる姿勢に、権力や権威にも媚(こ)びず、諂(へつら)わない、終始一貫した姿勢があるのかどうか、振り返ると自身が恥ずかしくなります。

教行信証行文類末に書かれている正信偈というのは、20年以上の歳月をかけて偈(本願の詩)として記されたものです。とても私には自分の書く言葉の一字の重さに、責任がもてないように思えます。おそらく教行信証は意(こころ)の内で、常に法然さまと対話をしながら記されたものでしょう。

自分の言葉に責任を持つことの重さは現代において、SNSで投稿するときにも考えなければならないと思います。このブログも含めてのことですが。以前に聞いた言葉があります。「言葉が憎しみを生む」。どのような場合にでも、人の尊厳性を傷つける言葉は許されないと思います。

親鸞さまの書かれたお聖教の言葉は、すべてに終始一貫する心が貫かれています。それは「ただ念仏のみぞまことにておはします」ということです。私たち凡夫には「まこと」の心はありません。私たちには真実正しいということはないと言うことです。
まことの心は阿弥陀さまからいただくほかありません。

自分が絶対に正しいと確信していることが、迷いであり無明の闇の本質ですから、その闇を破るのは智慧の光明しかありません。自分で正義を確信しているから、自分では無明の闇に気づきようがありません。自分中心の狭い世界のなかで正義を確信していことが邪見で五濁の中心です。義なきを義とす。

親鸞さまほど人間の愚かさ・悲しさ・恥ずかしさを、見つめておられた方はおられません。それが、私が親鸞さまをお敬いする理由です。

親鸞さまの言葉は、言葉では表現できないことを限界まで言葉で表現しようとされました。ですから「○○でもない」「△△でもない」「非(あら)ず」「非(あら)ず」という否定の表現を積み重ねるしかないことがあるのです。もともと佛教の「佛」も非(あら)ずという意味があります。

「一如」という言葉は一つの如しですが、一つではありません。二つでもないから不二とも言えます。言葉(分別智)では表現できません。

「不可思議」というのは考えてはいけない(不可)ということですから、思慮分別したり、言葉で説明してはいけないのです。人間の分別智(知恵)ではおよばない無分別智(智慧)の領域があります。

歎異抄には「総じてもって存知(ぞんじ)せざるなり」と書かれている箇所が2箇所あります。これは、私はすべてを末通してあきらかに見る智慧はない愚かな人間だから、なにが善といえるのか、なにが悪といえるのか、私には全く分かりませんということです。

ですから「分かりません」というのが答えになります。

「分かりません」とは、「分けられません」ということと同義になります。本来一つにつながっているものは分別できないということです。

多くの知識をえて、理解し、自分中心のものさし(量)で分別し、自分にとって都合の良いものと、都合の悪いものに分け(分別)、都合の良いものを自分のものとして、都合の悪いものを排除しようとする分別智は、無明の闇に潜む刃(やいば)ともなっています。生死勤苦(しょうじごんく)の根本でしょう。

親鸞さまの文章をよく読めば、本質的な行為(力・はたらき)の主体が自分自身ではなく、阿弥陀さまになっています。私たち凡夫は無意識のうちに「私が」「私の」というように自分が中心となり、自分を行為の主体としています。徹頭徹尾自分中心でしかものごとを考えられません。自分に執着している私自身のことです。

お聖教を精読するときには古語辞典や漢和字典が必要です。現代と同じ言葉でも鎌倉時代と現代とでは意味が異なったりするからです。一語一語逐語読みが必要となります。

また、白川静さんの『字統』を読むと漢字の成り立ちは、儒教という民俗宗教と深い関係にあることが分かります。インドの言葉から漢訳された言語を、もう一度大乗仏教本来の義として味わおうとされた先人達がいます。大乗仏教が普遍宗教の所以(ゆえん)です。

親鸞さまの門弟に対するお手紙のなかでは、単なる儀礼ではない尊敬語・丁寧語が至るところにでてきて、門弟を、いのちの尊厳性において分け隔てのない、御同朋(おんどうぼう)として敬われていたことがよく分かります。

お手紙第3通の主語は複数形になっていて、「お互いの人間関係のなかで敬いあう」ことの大切さを懇切丁寧な言葉で書かれています。そもそも御(おん)は尊敬を付け加える語で、お互いの人間関係を御同朋(おんどうぼう)と尊敬の語を加えて呼び合うような、対等で平等な関係にしましょうという意味となります。

結局、私自身が親鸞さまにお遇いしたと言えるのは、専門的な仏教の知識が増えて、専門的な知識を理解したということではなく、お遇いしたから結果として私自身の生き方が変わったということが、親鸞さまにお遇いしたということになります。

「ただ念仏して、阿弥陀さまの願いに導かれて生きる」しかありません。

思いつくままに記しました。
ブログを書くには、まだ時間がかかりそうです。
しかし実を結ぶ結論はすでに与えられています。書けなくてもよいのです。

南無阿弥陀仏

2022.05.03
2023.04.18

写真は下記の図録から掲載しました

特別展図録

親鸞—生涯と名宝

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いのちと色

いのちの尊厳

浄土和讃

親鸞聖人は浄土和讃のなかで次のように讃嘆されています。
①原文  『註釈版聖典563頁』本願寺出版社
一々のはなのなかよりは

三十六百千億(さんじゅうろっぴゃくせんおく)の

光明てらしてほがらかに

いたらぬところはさらになし

②現代語訳 『聖典セミナー浄土和讃本願寺出版社  
弥陀の浄土には青・白・玄(げん※)・黄・朱・紫などの蓮華が咲き乱れ、

その蓮華の一つひとつの花からは

三十六百千億というたくさんの光を十方にはなっている。

この光の至り届いていないところはどこにもないのである。

※玄は黒色

 

1.いのちと色
浄土に咲いている蓮の花びらには、青・白・玄(黒)・黄・朱・紫の6つの色があり
青い色は青く輝き、白い色は白く輝いています。

三十六百千億というのは不思議な数ですが、六つの色が互いに照らし合っているから
六×六=三十六ということになります。
これを相照(そうしょう)といいます。

六つの色でありながら、照らし合うことにより無量の色になります。
青は青のまま白・玄・黄・朱・紫・を照らす。

白は白のまま玄・黄・朱・紫・青 を照らす。

同様に玄・黄・朱・紫も他を照らします。

別の言い方をすれば、青は白・玄・黄・朱・紫に照らされて、それぞれの色を内に含んで、青として輝いています。

さらに、百千億(ひつゃくせんおく)の花びらのそれぞれの色が照らし合っているのですから、無量の色となり輝いているのです。

一つの花びらの色には、無量の色が内包(ないほう)されているという、仏教の壮大な宇宙観が示されています。

具体的にその意味を味わってみると、色はいのちを表わしているのだろうと思います。
私には私にしかない色があります。
無量のいのちがあれば色もまた無量です。

一つとして同じいのち(色)はありません。

青い色が青く輝くというのは、当たり前のことをいっているようですが、

私たちは本当の自分の色というものを知っているのでしょうか。

仏の光に照らされたときに、本当の自分の色に気づき、輝いてゆくことができます。

照らし合うなかで存在するというのは、縁起というものをあらわしています。

すべては、互いに支えあう無限の関係性のなかで存在しています。

それぞれの色に優劣や上下の関係はありません。
他の色を排除することもありません。

輝きは尊厳性を表しているのではないかと思います。

それぞれの個性を持ちながら、尊厳性は量(はか)ることができないから平等なのです。

浄土や阿弥陀如来で具現(ぐげん)される金色というのは、尊厳性を象徴しているのではないかと思います。

私たちは自分自身が一番輝きたいと思っているのではないでしょうか。

しかしこの考え方はともすれば独善的であり、他のいのち(色)を排除することになりがちです。
他の輝きが見える人こそ、本当はその人自身が輝いていることになります。

私たちはさまざな思いをもち、悩みながら生きている平凡な人間(凡夫)です。

まるで石、瓦、礫(つぶて・小石)のようです。

だけどその平凡ななかにこそ、それぞれの色と輝きがあるのではないかと思います。

当たり前のように思える日常生活のなかにこそ、本当に大切なものがあるのではないでしょうか。

※いのち
命ではなく「いのち」と書いたのは身体的・生理学的・法律上の命ではなく、尊厳性をもって輝いている、定義できない「いのち」として表すために平仮名で書きました。


2.あとがき
以前、鯖江市の絵画教室・絵楽塾(えがくじゅく)で、洋画を画こうとされる方に「仏教と色」について話ししてもらいたいと、依頼されたことがあります。

鯖江市出身の画家Nさんの紹介によるものです。

この文章はその時の資料をもとにしています。

肉眼で見る「色」や「光」と、仏教の「色」や「光「はどのような違いがあるのでしょうか。

Nさんともよく色の話しをしたものです。

若いときから「光」と「色」については関心がありました。

写真現像の仕事をしたのもそんな理由があったからです。

仏教と写真現像は私のなかでは根幹では共通するテーマとなっていました。

 

3.仏説無量寿経
仏説無量寿経という経典には、浄土の華について次のように書かれています。

①原文 『註釈版聖典40頁』本願寺出版社
衆宝(しゅぼう)の蓮華(れんげ)、
世界に周満(しゅうまん)せり。
一々の宝華(ほうけ)に百千億(ひゃくせんおく)の葉(はなびら)あり。
その華(はな)の光明に無量種(むりょうしゅ)の色あり。
青色に青光、白色に白光あり、玄・黄・朱・紫の光色(こうしき)もまたしかなり。
暐曄煥爛(いようかんらん)として日月(にちがつ)よりも明曜(みょうよう)なり。


一々(いちいち)の華(はな)のなかより 三十六百千億の光を出す。
一々(いちいち)の光のなかより 三十六百千億の仏を出す。
身色紫金(しんじきしこん)にして 相好殊特(そうごうしゅどく)なり。
一々(いちいち)の諸仏、また百千の光明を放ちて、あまねく十方のために
微妙(みみょう)の法を説きたまふ。


※暐曄煥爛(いようかんらん)
華光が明るく鮮やかに輝くさま

※三十六百千億(さんじゅうろっぴゃくせんおく) 
浄土の蓮華には百千億の花びらがあり、その花びらに青・白・玄(げん)・黄・朱・紫の六光があって相互に照らし合うから 六六三十六の百千億(ひゃくせんおく)の光になる。

一即一切(いちそく・いっさい)、
一切即一(いっさい・そくいち)という無礙(むげ)の相をあらわしている。


②現代語訳  『浄土三部経 現代語版69頁』本願寺出版社
いろいろな宝でできた蓮の花が、いたるところに咲いており、それぞれの花には百千億の花びらがある。
その花の放つ光には 無数の色がある。
青い色、白い色と それぞれに光り輝き、
同じように玄(黒)・黄・赤・紫の色に 光り輝くのである。
それらは 鮮やかに輝いて、太陽や月よりも なお明るい。

それぞれの花の中から、三十六百千億の光が放たれ、そのそれぞれの光の中から、三十六百千億の 仏がたが現(あらわ)れる。
そのお体は金色に輝いて、お姿はことのほかすぐれておいでになる。
この仏がたが またそれぞれ 百千の光を放ち、ひろくすべてのもののために、すぐれた教えをお説きになり、数限りない人々に、仏のさとりの道を歩ませてくださるのである。


3.唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)
親鸞聖人は『唯信鈔文意』のなかで次のように著されています。
①原文  『註釈版聖典708頁』本願寺出版社
「能令瓦礫変成金」といふは、「能(のう)」はよくといふ。
「令(りょう)」はせしむといふ。  
「瓦(が)」はかはらといふ。
「礫(りゃく)」はつぶてといふ。
「変成金(へんじょうこん)」は、「変成(へんじょう)」はかへなすといふ。
「金(こん)」はこがねといふ。


かはら・つぶてを、こがねに かへなさしめんがごとしと、たとへたまへるなり。
れふし・あき人、さまざまのものはみな、いし・かはら・つぶてのごとくなる、われらなり。

如来の御ちかひを、ふたごころなく信楽(しんぎょう)すれば、摂取(せっしゅ)のひかりのなかに、をさめとられまゐらせて、かならず大涅槃(だいねはん)のさとりをひらかしめたまふは、すなはちれふし・あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしと、たとへたまへるなり。
摂取(せっしゅ)のひかりと申すは、阿弥陀仏御(おん)こころにをさめとりたまふゆゑなり。

②現代語訳  『唯信鈔文意 現代語版20頁』本願寺出版社
「能令瓦礫変成金」というのは、「能」は「よく」ということであり、「令」は「させる」ということであり、「瓦」は「かわら」ということであり、「礫」は「つぶて」ということである。
「変成金」とは、「変成」は「かえてしまう」ということであり、「金」は「こがね」ということである。

つまり、瓦や小石を金(きん)に変えてしまうようだと、たとえておられるのである。

漁猟(ぎょりょう)を行うものや商いを行う人など、さまざまなものとは、いずれもみな、石や瓦や小石のような わたしたち自身のことである。
如来誓願(せいがん)を疑いなくひとすじに信じれば、摂取の光明の中に摂め取られて、必ず大いなる仏のさとりを 開かせてくださる。
すなわち、漁猟(ぎょりょう)を行うものや 商いを行う人などは、石や瓦や小石などを 見事に金にしてしまうように救われていくのである、
とたとえておられるのである。
摂取の光明とは、阿弥陀仏のお心に 摂め取ってくださるから、そのようにいうのである。

 

 

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泥(どろ)のなかに開く花

睡蓮 汚濁(おだく)のなかに開く清浄(しょうじょう)の花

分陀利華(ふんだりけ)・白蓮華(びゃくれんげ)


蓮華(れんげ)

多くの経典や正信偈にでてくる蓮華(れんげ)は、蓮または睡蓮(すいれん)の花のことです。仏典に出る蓮華は、中国・日本の睡蓮にむしろ近いといわれています。


淤泥華(おでいけ
蓮華は淤泥華(おでいけ)ともいいます。
爽(さわ)やかな風が吹き、見晴らしのよい高原の乾いた陸地に咲くのではなく、水が澱(よど)み・沈澱(ちんでん)し・濁っている泥のなかに生じます。

その泥は私たち凡夫の内心(煩悩)のありようをあらわす喩(たとえ)です。

清浄性(しょうじょうせい)
蓮華は泥(煩悩)のなかにありながら、泥(煩悩)に染まらない、仏(ぶつ)の清浄性(しょうじょうせい)の喩(たと)えとされ、さとりの智慧(ちえ)を象徴しています。

汚濁性(おだくせい)
泥は自分中心の閉ざされた我執(がしゅう)の世界(無明)を象徴し、蓮華は十方に開かれ、我執を離れた世界(智慧)を象徴するものでもあります。

私たちの内心は汚濁性(おだくせい)であり、清浄性(しょうじょうせい)はまったくありません。

仏(仏の仕事)
花を咲かせるのは私たちではなく、煩悩の泥のなかに身を沈め、私たちを導き清浄の花を開かせる仏(ぶつ)や菩薩(ぼさつ)の仏事(仏の仕事)です。仏や菩薩の仕事の場所は現実のこの世界・この身です。

信心の花
信心の花というのは、阿弥陀さまの心が私の内心にはたらき、信心が生ずることの喩(たとえ)です。阿弥陀さまの心が、汚濁(おだく)した私たちの内心に生じ、貪(むさぼ)り・怒り・憎しみなどの煩悩に、一切染まることなく起(た)ちあがってきます。

分陀利華(ふんだりけ)

古代インドの言葉プンタリーカ(puņđarīka)の音訳。白蓮華のことです。蓮華のなかで最も高貴なものとされます。真実信心をえた念仏の人を讃えて分陀利華(ふんだりけ)といいます。

静寂(せいじゃく)な喜び
智慧(ちえ)より生じた澄浄(ちょうじょう)の心は静かな喜びであり、熱狂的・狂信的な心とはかけ離れています。だれも所有できないけれど、だれにも平等に与えられる心です。

自身の本質的な姿

清浄の花が開いて、智慧(ちえ)の香りが弘まるとき、初めて自身が泥のなかに深く沈澱(ちんでん)していたことに気づきます。

泥のなかにしかいたことのない者は、清浄性がまったくないわけですから、自身の内にある汚れや悪臭には気づきようがありません。仏法に遇(あ)わなければ自身の本質的姿は見えてきません。

悪人正機(あくにんしょうき)
爽やかな高原ではなく、自らの罪悪のため泥のなかに深く沈澱(ちんでん)している悪人に、救いの焦点があてられています。それが悪人正機(あくにんしょうき)です。
悪人とは私が知っている私ではなく、阿弥陀さまから問題とされている(智慧の光に照らされた)、私たちの本質的な姿です。   

浄土を欣(ねが)い この世を厭(いと)う
花が開いた様子をみると、闇の中に智慧の光と香を放っているようです。
智慧の光に遇(あ)うとき時、汚濁(おだく)の泥底から離れようとする心と、清浄の浄土を欣(ねが)う心が生まれます。

自分中心のありよう
汚れというのは実体的(じったいてき)な汚れではなく、自分中心のありようを象徴的(しょうちょうてき)に表現しています。
自分中心の生き方をして、自分自身のありようや、まわりの人の姿も見えていない、泥底の闇に沈澱しているのが、私たち自身の本当の姿です。

慚愧(ざんぎ)が人を救う
それはとても悲しく恥ずかしい姿です。
恥ずかしい姿に気づくことが救いになります。
恥ずかしくない、真(まこと)の人としての生き方を、求めるようになるからです。

汚濁(おだく)の中心
汚濁(おだく)の中心は見濁(けんじょく)だといわれています。しかも自身の眼(まなこ)が濁っていることには、気づいていないのが見濁です。汚れた眼で、汚れた眼を見ることはできません。

いのちの分断

見濁とは濁った眼(まなこ)でものごとをみて、善悪正邪(ぜんあくせいじゃ)を分別判断しているということです。そのことが、いのちのつながりを分断する根本となっています。

自是他非(じぜたひ)
正しくものごとを見ることができず、自分中心の邪(よこしま)なものの見方をして、自分を是(ぜ)とし、他の人を非(ひ)として、自分とは異なる見解の人を排除しようとするのが凡夫のありようです。

汚濁の世界に還(かえ)る
私たちも、この世の縁が尽き、浄土に生まれて仏(ぶつ)となり、さとりの智慧(ちえ)を得たならば、大悲(だいひ)の心をおこし、再びこの汚泥の世界に還(かえ)って、一人一人のさとりの花が開くように、すべてのいのちあるものを導くことになります。

仏(ぶつ)の仕事
そのことが仏事(仏の仕事)であり、まことの喜びとなります。だれとでも分かちあうことのできる普遍的な喜びです。具体的に仏事をするのは名号(お念仏)であり、さとりの花を開かせ、汚濁の世界を離れて清浄の世界へ導いてくださいます。

仏の仕事に参画(さんかく)
いのちあるものすべての花が開くまで、仏事(仏の仕事)に終わりはありません。
私も仏事に参加したいと思っています。お念仏を称えればだれでも参加できます。

阿弥陀さまの願いを象徴(しょうちょう)
お寺やお仏壇のなかには、たくさんの蓮華が開いていますが、阿弥陀さまの願いを象徴しているのが蓮華です。阿弥陀さまの願いを聞いて信じるとき、私たちの内にも信心の花が開きます。

浄土に一つの蓮の花が生じる

教行信証

「この世界で一人の人が仏の名号を称えると、浄土に一つの蓮の花が生じる」

と記されています。なんとも詩的な表現です。

現実にそのようなことがあるのかどうかほ詮索するの意味のないことです。阿弥陀仏の願いを象徴する表現としてそのまま聞かせていただきましょう。

 

教行信証 行文類
この界(かい)に一人(いちにん)、仏(ぶつ)の名(みな)を念ずれば、

西方(さいほう)にすなはち一つの蓮(はつす)ありて生(しょう)ず。
浄土真宗聖典(註釈版)172頁

教行信証 行文類 正信念仏偈

一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願(ぐぜいがん)を聞信(もんしん)すれば、
仏、広大勝解(こうだいしょうげ)のひととのたまへり。

この人を分陀利華(ふんだりけ)と名づく。

浄土真宗聖典(註釈版)204頁

教行信証(きょうぎょうしんしょう)
淤泥華(おでいけ)とは、
『経』(維摩経・ゆいまきょう))にのたまはく、
高原(こうげん)の陸地(ろくじ)には
蓮華(れんげ)を生ぜず。

卑湿(ひしゅう)の淤泥(おでい)にいまし
蓮華(れんげ)を生ずと。

これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、
菩薩(ぼさつ)のために開導(かいどう)せられて、
よく仏の正覚の華(はな)を生ずるに喩(たと)ふ。

浄土真宗聖典(註釈版)319頁


入出二門偈頌(にゅうしゅつにもんげじゅ) 
高原(こうげん)の陸地(ろくじ)には 
蓮(はちす)を生ぜず。

卑湿(ひしゅう)の淤泥(おでい)に 
蓮華(れんげ)を生ずと。

これは凡夫、
煩悩の泥(でい)のうちにありて、

仏の正覚の華(はな)を生ずるに 
喩(たと)ふるなり。

浄土真宗聖典(註釈版)549頁

 



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たしかな支え

 

たしかな支えがあります


弘誓(ぐぜい)のちからを
かぶらずは
いづれのときにか
娑婆(しゃば)をいでん

仏恩(ぶっとん)ふかく
おもひつつ 
つねに
弥陀(みだ)を念ずべし
     

浄土真宗聖典(註釈版)高僧和讃 593頁

意訳
阿弥陀さまの
大いなる願いの
力(はたらき)を
受けることがなかったら
私たちはいつ
この苦しみの世界を
離れ出ることが
できるでしょうか
阿弥陀さまの
ご恩を深く思いつつ
つねに
お念仏を称えましょう
 
味わい
私たちの世界のことを
仏教では
娑婆(しゃば)と言います

娑婆(しゃば)とは
古代インドの言葉
サハーの音写(おんしゃ)で
堪(た)え忍ぶ世界
ということです

この世の苦しみに
堪(た)え忍んで
生きることは
至難のことですが

そのような私たちの
真の支えとなるのが
仏法です

私たちは
阿弥陀さまの願いに
支えられたとき
この苦しみの世界を
離れ出ることができます

真(まこと)の支えのことを
法灯(ほうとう
ともいいます

法灯を伝えてくださった
先人(せんじん)のご恩に
感謝しましょう

私は 今 どう生きるのか

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親鸞さまの生き方に学ぶ



法然さまとの出会い
人との出会いはとても大切です。親鸞さまは29歳のとき、生涯忘れることのできない人と出会いました。法然さまというお方です。
 
法然さまは69歳でしたが、40歳も年下の親鸞さまに、やさしく語りかけられました。親鸞さまは、法然さまの言葉を一言も聞きもらさないように、真剣に百日の間、聞き続けられました。
 
35歳でお別れになった後も、深く法然さまを慕われて、法然さまの行かれるところへは、どのようなところでも行くと語っておられます。

9歳の法然さま
法然さまは、どのようなお方だったのでしょう。生まれたのは現在の岡山県です。幼い頃の名前は勢至丸(せいしまる)といいます。父親は地方の有力者で漆間時国(うるまときくに)という人です。

勢至丸が9歳の時、荘園の管理をしていた明石定明が夜襲ってきて、父時国は勢至丸の目の前で殺されてしまいました。その時、時国は次のような遺言を残したといわれています。

私は傷つけられたら痛いと思う。人もまた同じだろう。
私はこの命を大切だと思う。人もまた同じだろう。
決して敵を怨んではならない。

もし、かたきを討つならば、怨みの息むことがないだろう。
怨みを捨てて、ともに救われる道を歩んでもらいたい。


怨みを捨ててこそ息む
 
勢至丸は父の遺言に従って出家し僧侶となりました。名前を 法然と改め、学問と修業の日々を送られました。
しかし、よく考えてみると、父の遺言の通りに生きることは、とても難しいことだったでしょう。怨み・憎しみを捨てることほど難しいことはありません。それは科学が進歩した現代でも同じことです。
どれほど多くの富を持っていても、どれほど多くの知識をもっていても、困難なことです。
法然さまは、怨み・憎しみを捨てることができるのは阿弥陀さまの心(大いなる慈悲心)によってのみであると、思われたのでしょう。
 
親鸞さまが83歳のとき書かれたお手紙のなかに、法然さまから聞いた言葉が、次のように記されています。

念仏する人を、憎んだり非難する人であっても、その人を憎んだり非難することがあってはなりません。慈しみ悲しむ心を持ちなさい。

浄土とは、憎しみのない大いなる慈悲の世界です。阿弥陀さまの名前を称え、愛と憎しみを超えた浄土に往く道を歩まれたのが、法然さまと親鸞さまです。生涯弾圧を受けられたなかで語られた方々の言葉には責任と重みがあります。

親鸞さまの心にはいつまでも、法然さまの称えるお念仏の声が響いていました。


ダンマパダ5
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
ブッダの「真理のことば」「感興のことば」5 岩波文庫


親鸞聖人御消息
「この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。
本願寺出版社 浄土真宗聖典(註釈版)748頁                  

この文章は正覚寺だよりNO20号に掲載したものです。

現在も世界中で戦争が絶えません。親鸞さまの言葉をかみしめたいものです。
以前、紛争地帯で難民となった人が「言葉が憎しみを生む」と言われていました。どのような言葉で考えるべきなのか。どのような言葉を使うべきなのか、どのような言葉は使うべきではないのか。よく考えなければならないと思います。

親鸞さまは言葉を非常に大事にされて、一言一句言葉を慎重に選ばれました。自分自身が救いや教えの主体とならないように、阿弥陀さまやお釈迦さまが主体となるような文言になっています。また、ご自身の言葉に責任をもたれました。SNS等で責任のない言葉が多用されている今、私自身も含めて言葉に責任を持たなければならないと自戒しています。

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苦悩が凝縮された時代

NHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」を放送しています。頼朝が伊豆で挙兵したのは1180年(親鸞さま8歳)ですが、この放送を見ながら、私は別のことを思いうかべていました。

この時代は400年間続いてきた貴族中心の時代から、武士が力で支配する世のなかに変わろうとする歴史の大変革の時でした。武士が力で支配する時代はその後、約700年間続きます。またこの時代の戦乱の特徴は親子・兄弟が殺し合う、熾烈な骨肉の争いだったことです。

自然災害・戦乱・大飢饉・伝染病などが重なり、苦悩が凝縮されたような世のなかで、庶民の苦しみも極限状態になっていました。1181年親鸞さまは9歳で出家得度をしますが、その年と次の年は大飢饉と伝染病がつづき、全国でおびただしい人がなくなりました。

1183年には戦乱・飢饉・伝染病で混乱した平安京木曾義仲が乱入します。鎌倉時代に仏教各宗が興ったのは苦しみ悩む人々がいたからです。斎藤実盛加賀国篠原の戦いで戦死したのも1183年で、1185年には文治京都大地震(M7.4)があり、平氏は壇ノ浦で滅亡しました。親鸞さま13歳です。

このような世のなかを親鸞さまはどのようにみておられたのか想像するとき、心に深くきざむ言葉があったのではないでしょうか。

衆生利益」

いのちあるものすべてが喜びを分かち合える人間関係をともに願う・・・。その思いは、生涯忘れることがなかったのでしょう。

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苦悩の凝縮された時代

NHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」を放送しています。頼朝が伊豆で挙兵したのは1180年(親鸞さま8歳)ですが、この放送を見ながら、私は別のことを思いうかべていました。

この時代は400年間続いてきた貴族中心の時代から、武士が力で支配する世のなかに変わろうとする歴史の大変革の時でした。武士が力で支配する時代はその後、約700年間続きます。またこの時代の戦乱の特徴は親子・兄弟が殺し合う、熾烈な骨肉の争いだったことです。

自然災害・戦乱・大飢饉・伝染病などが重なり、苦悩が凝縮されたような世のなかで、庶民の苦しみも極限状態になっていました。1181年親鸞さまは9歳で出家得度をしますが、その年と次の年は大飢饉と伝染病がつづき、全国でおびただしい人がなくなりました。

1183年には戦乱・飢饉・伝染病で混乱した平安京木曾義仲が乱入します。鎌倉時代に仏教各宗が興ったのは苦しみ悩む人々がいたからです。斎藤実盛加賀国篠原の戦いで戦死したのも1183年で、1185年には文治京都大地震(M7.4)があり、平氏は壇ノ浦で滅亡しました。親鸞さま13歳です。

このような世のなかを親鸞さまはどのようにみておられたのか想像するとき、心に深くきざむ言葉があったのではないでしょうか。

衆生利益」

いのちあるものすべてが喜びを分かち合える人間関係をともに願う・・・。その思いは、生涯忘れることがなかったのでしょう。

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真(まこと)のよろこび

 

 

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親鸞聖人の言葉

 

【和讃(わさん)】

南無阿弥陀仏を となふれば
十方無量の 諸仏は
百重千重 囲繞(いにょう)して
よろこびまもり たまふなり
 

【語句】

囲繞(いにょう):とりかこむこと。

現世(げんぜ):現在。この世のいのちが尽きるまで。

 

【意訳】
阿弥陀仏の願いを聞いて、信じ喜び、 
南無阿弥陀仏を称えれば、
十方世界の数限りない諸仏は、
百重にも千重にも、とりかこんで、
喜んでお護りくださいます。

 

【味わい】

浄土和讃のなかの現世利益(げんぜりやく)讃の言葉です。

15首和讃の末尾ですが、以前は現世利益ということが、あまり納得できませんでした。自分の欲望を満たすという、どちらかといえば低俗なことを想像していたからです。

 

しかし、徐々に意識が変わってきました。功徳も利益も真実という言葉がつけば、真実の功徳、真実の利益と言い表します。それは、私が欲望の心で求めて得たものではなく、所有できるものでもありません。阿弥陀さまから、分けへだてなく平等に与えられている利益です。15首和讃の結論かもしれません。

 

浄土に往き生まれることが定まった仲間に参加し、諸仏に褒められ、よろこび護られて無碍の一道を歩むこと以上の利益(りやく)はないでしょう。しかも、浄土に生まれたときに、自身が諸仏の仲間に加わります。現世の利益は、浄土に生まれた後の利益につながっていることを示しています。

 

そして、その先には、迷いの世界に還って衆生を救う「衆生利益」までつながっています。真実の利益が意味するのは、信心が定まったとき、諸々の衆生と共に「衆生利益」にまでつながる道を一歩踏み出すことになる、その利益すべてが阿弥陀さまからあたえられたものだということです。

 

自身を振り返ってみれば、周りの人に褒められたいという意識が強いように思います。自己承認要求というのか、常に周りの評価を気にしていました。現にこの文章を書いている時でさえ、どのような人から、どのように比較・評価されるのか考えると不安になります。

 

世間の評価には毀誉褒貶(きよほうへん)があります。

 

そんな時、人の評価はどうであれ、諸仏に褒められ、よろこび護られることに真のよろこびを見出すことができたら、世間の評価も絶対的なものではないと思えてきます。

 

世間に褒められるより諸仏に褒められるような人でありたい。阿弥陀さまとともに確かな道を歩みたいものです。

 

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恥(は)づべし傷(いた)むべし

 

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親鸞聖人の言葉

親鸞聖人の著された『教行証文類』に「悲しきかな」ではじまり「恥づべし傷むべし」で結ばれている次のような一節があります。
 
悲しいことに、この愚かな親鸞は、愛欲(あいよく)の広い海に沈み、名誉欲や財産欲の大きな山に迷っている。
浄土に往生し仏(ぶつ)に成ることが定まった仲間であることを喜ばず、さとりに近づくことを楽しいとも思わない。恥ずかしいことだし心に痛みをおぼえる。

私は最初にこのご文を目にしたとき、大変厳しい言葉だと感じました。しかし、繰り返し読むうちに、厳しくはあるけれども他人に向けた言葉ではないことに気づきました。

末尾の「べし」は「そうであるのが当然(必然)である」を意味する言葉ですが、この文章の場合は他人に対するものではなく、聖人ご自身に向けた言葉だったのです。

そして、人生の方向を迷いの世界から浄土へと転じさせる言葉でもありました。

愛欲の広い海に沈み、名誉欲や財産欲の大きな山に迷っているにもかかわらず、その自覚さえない私たちの姿は、何とも悲しいものです。これが智慧の光に照らされた凡夫の姿です。

よく案じてみると、私たちは「恥づべし傷むべし」を見失っているのではないでしょうか。

恥ずかしいという思いは、本願に遇(あ)い自分が過ちを犯しうる愚かな人間だと気づいたときに、自ずと(必然的に)生じます。正当化できない自身に対峙(たいじ)したときの思いです。

傷みは悲痛ということであり、自ずと心に痛みを感じるということです。内面から生じる痛みです。そして、自らの心に痛みを感じるときに同朋(どうぼう)の悲痛にも共感でき、互いに親しみあう温かい人間関係が生まれます。

大悲に包まれた悲しみは、人間の最も深い豊かな想いだと言えます。快楽・怒り・憎しみは本能に直結していますが、悲しみには想像力が必要となるからです。悲しみと喜びは本来分別できないものです。

悲しみを見失ったときには、喜びもまた実態のないものとなるでしょう。

その悲しい凡夫が、阿弥陀如来の本願のはたらきによって、暴走する煩悩にブレーキをかけ、立ち止まり、浄土を人生の方向と定め、真の仏弟子(本当の人間)として歩み始めることができるのです。

人間の悲しさ、この世の悲しさを見つめて生きること。煩悩はなくならないけれど、煩悩に振り回される生き方から、煩悩を見つめ、阿弥陀如来とともに生きる生き方に転じること。それが真の仏弟子として生きるということです。

「悲しきかな」ではじまり「恥(は)づべし傷(いた)むべし」で結ばれた一節には、凡夫であることの限りない悲痛(ひつう)が記されています。そんな悲痛にうめく私たちを救うために建てられたのが阿弥陀如来の悲願(ひがん)です。

深い悲しみのなかに、迷いを超えて浄土に通じる本願念仏の一道が確かに開かれており、真の仏弟子として不退転(ふたいてん)の一歩を既に踏み出せたことの、大きな慶(よろこ)びがあるのです。
                              
2015年福井教区『友の輪』第29号に掲載

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