親鸞さまに学ぶ

親鸞聖人の言葉を味わいます

泥(どろ)のなかに開く花

睡蓮 汚濁(おだく)のなかに開く清浄(しょうじょう)の花

分陀利華(ふんだりけ)・白蓮華(びゃくれんげ)


蓮華(れんげ)

多くの経典や正信偈にでてくる蓮華(れんげ)は、蓮または睡蓮(すいれん)の花のことです。仏典に出る蓮華は、中国・日本の睡蓮にむしろ近いといわれています。


淤泥華(おでいけ
蓮華は淤泥華(おでいけ)ともいいます。
爽(さわ)やかな風が吹き、見晴らしのよい高原の乾いた陸地に咲くのではなく、水が澱(よど)み・沈澱(ちんでん)し・濁っている泥のなかに生じます。

その泥は私たち凡夫の内心(煩悩)のありようをあらわす喩(たとえ)です。

清浄性(しょうじょうせい)
蓮華は泥(煩悩)のなかにありながら、泥(煩悩)に染まらない、仏(ぶつ)の清浄性(しょうじょうせい)の喩(たと)えとされ、さとりの智慧(ちえ)を象徴しています。

汚濁性(おだくせい)
泥は自分中心の閉ざされた我執(がしゅう)の世界(無明)を象徴し、蓮華は十方に開かれ、我執を離れた世界(智慧)を象徴するものでもあります。

私たちの内心は汚濁性(おだくせい)であり、清浄性(しょうじょうせい)はまったくありません。

仏(仏の仕事)
花を咲かせるのは私たちではなく、煩悩の泥のなかに身を沈め、私たちを導き清浄の花を開かせる仏(ぶつ)や菩薩(ぼさつ)の仏事(仏の仕事)です。仏や菩薩の仕事の場所は現実のこの世界・この身です。

信心の花
信心の花というのは、阿弥陀さまの心が私の内心にはたらき、信心が生ずることの喩(たとえ)です。阿弥陀さまの心が、汚濁(おだく)した私たちの内心に生じ、貪(むさぼ)り・怒り・憎しみなどの煩悩に、一切染まることなく起(た)ちあがってきます。

分陀利華(ふんだりけ)

古代インドの言葉プンタリーカ(puņđarīka)の音訳。白蓮華のことです。蓮華のなかで最も高貴なものとされます。真実信心をえた念仏の人を讃えて分陀利華(ふんだりけ)といいます。

静寂(せいじゃく)な喜び
智慧(ちえ)より生じた澄浄(ちょうじょう)の心は静かな喜びであり、熱狂的・狂信的な心とはかけ離れています。だれも所有できないけれど、だれにも平等に与えられる心です。

自身の本質的な姿

清浄の花が開いて、智慧(ちえ)の香りが弘まるとき、初めて自身が泥のなかに深く沈澱(ちんでん)していたことに気づきます。

泥のなかにしかいたことのない者は、清浄性がまったくないわけですから、自身の内にある汚れや悪臭には気づきようがありません。仏法に遇(あ)わなければ自身の本質的姿は見えてきません。

悪人正機(あくにんしょうき)
爽やかな高原ではなく、自らの罪悪のため泥のなかに深く沈澱(ちんでん)している悪人に、救いの焦点があてられています。それが悪人正機(あくにんしょうき)です。
悪人とは私が知っている私ではなく、阿弥陀さまから問題とされている(智慧の光に照らされた)、私たちの本質的な姿です。   

浄土を欣(ねが)い この世を厭(いと)う
花が開いた様子をみると、闇の中に智慧の光と香を放っているようです。
智慧の光に遇(あ)うとき時、汚濁(おだく)の泥底から離れようとする心と、清浄の浄土を欣(ねが)う心が生まれます。

自分中心のありよう
汚れというのは実体的(じったいてき)な汚れではなく、自分中心のありようを象徴的(しょうちょうてき)に表現しています。
自分中心の生き方をして、自分自身のありようや、まわりの人の姿も見えていない、泥底の闇に沈澱しているのが、私たち自身の本当の姿です。

慚愧(ざんぎ)が人を救う
それはとても悲しく恥ずかしい姿です。
恥ずかしい姿に気づくことが救いになります。
恥ずかしくない、真(まこと)の人としての生き方を、求めるようになるからです。

汚濁(おだく)の中心
汚濁(おだく)の中心は見濁(けんじょく)だといわれています。しかも自身の眼(まなこ)が濁っていることには、気づいていないのが見濁です。汚れた眼で、汚れた眼を見ることはできません。

いのちの分断

見濁とは濁った眼(まなこ)でものごとをみて、善悪正邪(ぜんあくせいじゃ)を分別判断しているということです。そのことが、いのちのつながりを分断する根本となっています。

自是他非(じぜたひ)
正しくものごとを見ることができず、自分中心の邪(よこしま)なものの見方をして、自分を是(ぜ)とし、他の人を非(ひ)として、自分とは異なる見解の人を排除しようとするのが凡夫のありようです。

汚濁の世界に還(かえ)る
私たちも、この世の縁が尽き、浄土に生まれて仏(ぶつ)となり、さとりの智慧(ちえ)を得たならば、大悲(だいひ)の心をおこし、再びこの汚泥の世界に還(かえ)って、一人一人のさとりの花が開くように、すべてのいのちあるものを導くことになります。

仏(ぶつ)の仕事
そのことが仏事(仏の仕事)であり、まことの喜びとなります。だれとでも分かちあうことのできる普遍的な喜びです。具体的に仏事をするのは名号(お念仏)であり、さとりの花を開かせ、汚濁の世界を離れて清浄の世界へ導いてくださいます。

仏の仕事に参画(さんかく)
いのちあるものすべての花が開くまで、仏事(仏の仕事)に終わりはありません。
私も仏事に参加したいと思っています。お念仏を称えればだれでも参加できます。

阿弥陀さまの願いを象徴(しょうちょう)
お寺やお仏壇のなかには、たくさんの蓮華が開いていますが、阿弥陀さまの願いを象徴しているのが蓮華です。阿弥陀さまの願いを聞いて信じるとき、私たちの内にも信心の花が開きます。

浄土に一つの蓮の花が生じる

教行信証

「この世界で一人の人が仏の名号を称えると、浄土に一つの蓮の花が生じる」

と記されています。なんとも詩的な表現です。

現実にそのようなことがあるのかどうかほ詮索するの意味のないことです。阿弥陀仏の願いを象徴する表現としてそのまま聞かせていただきましょう。

 

教行信証 行文類
この界(かい)に一人(いちにん)、仏(ぶつ)の名(みな)を念ずれば、

西方(さいほう)にすなはち一つの蓮(はつす)ありて生(しょう)ず。
浄土真宗聖典(註釈版)172頁

教行信証 行文類 正信念仏偈

一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願(ぐぜいがん)を聞信(もんしん)すれば、
仏、広大勝解(こうだいしょうげ)のひととのたまへり。

この人を分陀利華(ふんだりけ)と名づく。

浄土真宗聖典(註釈版)204頁

教行信証(きょうぎょうしんしょう)
淤泥華(おでいけ)とは、
『経』(維摩経・ゆいまきょう))にのたまはく、
高原(こうげん)の陸地(ろくじ)には
蓮華(れんげ)を生ぜず。

卑湿(ひしゅう)の淤泥(おでい)にいまし
蓮華(れんげ)を生ずと。

これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、
菩薩(ぼさつ)のために開導(かいどう)せられて、
よく仏の正覚の華(はな)を生ずるに喩(たと)ふ。

浄土真宗聖典(註釈版)319頁


入出二門偈頌(にゅうしゅつにもんげじゅ) 
高原(こうげん)の陸地(ろくじ)には 
蓮(はちす)を生ぜず。

卑湿(ひしゅう)の淤泥(おでい)に 
蓮華(れんげ)を生ずと。

これは凡夫、
煩悩の泥(でい)のうちにありて、

仏の正覚の華(はな)を生ずるに 
喩(たと)ふるなり。

浄土真宗聖典(註釈版)549頁

 



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