親鸞聖人の著された『教行証文類』に「悲しきかな」ではじまり「恥づべし傷むべし」で結ばれている次のような一節があります。
悲しいことに、この愚かな親鸞は、愛欲(あいよく)の広い海に沈み、名誉欲や財産欲の大きな山に迷っている。
浄土に往生し仏(ぶつ)に成ることが定まった仲間であることを喜ばず、さとりに近づくことを楽しいとも思わない。恥ずかしいことだし心に痛みをおぼえる。
私は最初にこのご文を目にしたとき、大変厳しい言葉だと感じました。しかし、繰り返し読むうちに、厳しくはあるけれども他人に向けた言葉ではないことに気づきました。
末尾の「べし」は「そうであるのが当然(必然)である」を意味する言葉ですが、この文章の場合は他人に対するものではなく、聖人ご自身に向けた言葉だったのです。
そして、人生の方向を迷いの世界から浄土へと転じさせる言葉でもありました。
愛欲の広い海に沈み、名誉欲や財産欲の大きな山に迷っているにもかかわらず、その自覚さえない私たちの姿は、何とも悲しいものです。これが智慧の光に照らされた凡夫の姿です。
よく案じてみると、私たちは「恥づべし傷むべし」を見失っているのではないでしょうか。
恥ずかしいという思いは、本願に遇(あ)い自分が過ちを犯しうる愚かな人間だと気づいたときに、自ずと(必然的に)生じます。正当化できない自身に対峙(たいじ)したときの思いです。
傷みは悲痛ということであり、自ずと心に痛みを感じるということです。内面から生じる痛みです。そして、自らの心に痛みを感じるときに同朋(どうぼう)の悲痛にも共感でき、互いに親しみあう温かい人間関係が生まれます。
大悲に包まれた悲しみは、人間の最も深い豊かな想いだと言えます。快楽・怒り・憎しみは本能に直結していますが、悲しみには想像力が必要となるからです。悲しみと喜びは本来分別できないものです。
悲しみを見失ったときには、喜びもまた実態のないものとなるでしょう。
その悲しい凡夫が、阿弥陀如来の本願のはたらきによって、暴走する煩悩にブレーキをかけ、立ち止まり、浄土を人生の方向と定め、真の仏弟子(本当の人間)として歩み始めることができるのです。
人間の悲しさ、この世の悲しさを見つめて生きること。煩悩はなくならないけれど、煩悩に振り回される生き方から、煩悩を見つめ、阿弥陀如来とともに生きる生き方に転じること。それが真の仏弟子として生きるということです。
「悲しきかな」ではじまり「恥(は)づべし傷(いた)むべし」で結ばれた一節には、凡夫であることの限りない悲痛(ひつう)が記されています。そんな悲痛にうめく私たちを救うために建てられたのが阿弥陀如来の悲願(ひがん)です。
深い悲しみのなかに、迷いを超えて浄土に通じる本願念仏の一道が確かに開かれており、真の仏弟子として不退転(ふたいてん)の一歩を既に踏み出せたことの、大きな慶(よろこ)びがあるのです。
2015年福井教区『友の輪』第29号に掲載