親鸞さまに学ぶ

親鸞聖人の言葉を味わいます

「相互の関係性」から生じる苦悩

1.「相互の関係性」から生じる苦悩

南無阿弥陀仏智慧(ちえ)の名号

 『唯信鈔文意』

以下、煩雑な言葉がならびますが、結論はすべて名号におさまります。 

智慧(ちえ)の名号を称える者は、自ずと無分別智(むふんべつち)の世界に導かれるからです。

②人間関係の苦しみ

私たちの苦しみは人間関係に起因することが多くあります。
差別・偏見・抑圧・暴力・戦争・虐待・いじめ・ハラスメント・DV等。人間関係が上下関係、利害関係、優劣の関係、強弱の力関係、排除の関係であればどこかで対立が生じ、憎しみが生まれます。

人間関係が対立の関係ではなく、お互いに対等で平等な関係であることをめざすのが仏教であるように思います。この視点を見失っていたのが寺院衰退の一因ともなっているように思います。それは私自身の深い反省でもあります。

人間関係で悩む多くの人たち苦悩に応えることができていない教団の現状があります。老病も介護や生活苦などの人間関係の苦悩もともないます。「関係性」から生じる苦悩は「関係性」全体を見直す必要があります。そこには縁起を説く仏教の救いがあります。

以下は私自身の見解ですから間違っているかもしれません。

 

③縁起 因縁生起(いんねんしょうき)
仏教の根本真理は因縁生起にあります。縁起・因縁生起とは次のようなことです。

この世に存在するすべてのものは、お互いに関わり合って存在している。

 

④連続無窮(れんぞくむぐう)のいのち

浄土真宗ももちろんこの根本真理で成り立っています。十方衆生はお互いに網の目のようにつながりあって、存在しています。自分一人の救いでは完結しません。ですから、迷いの世界に還(かえ)り衆生を救う衆生利益(しゅじょうりやく)が、とても大切なことになります。縁起・関係性を見失ったらそれはもはや仏教とはいえないのでしょう。

浄土は自他一如(じたいちにょ)、一如平等(いちにょびょうどう)、怨親平等(おんしんびょうどう)の世界ですが、他とは私以外のいのちあるもの(十方衆生)と考えれば十方衆生のつながりあいを、すべて見通せるような無量光明の世界だと味わっています。

⑤無分別智(むふんべつち)

無量光明の世界とは、分別して量(はか)ることが無意味な智慧(ちえ)すなわち無分別智の世界ということです。

仏のさとりを得るということは智慧=無分別智(むふんべつち)を得るということです。私たちの知恵は分別する知恵ですから、自分と他人、敵と味方をはっきり分別して自分にとって都合のよい人を味方として親しみ愛し、自分にとって都合の悪い人を敵とみなし怨(うら)み憎しんで排除しようとします。そこに人間関係の対立が生じます。その最たるものが戦争です。

怨親平等(おんしんびょうどう)の世界

智慧=無分別智(むふんべつち)を得るとあらゆるものが、分別の無いつながりあいのなかで成り立っていることが如実に見えます。分別することが無意味になる世界です。
ですから自分と他人、敵と味方と分別することも無意味だと気づくことになります。
自他一如、一如平等、生死一如、怨親平等といろんな言葉がありますが、別のことを言っているのではないと思います。一如ということをいろんな相(すがた)で示しているので本質は同じでしょう。

智慧の名号を称える者は、自ずと無分別智(むふんべつち)の世界に導かれます。

⑥倶(とも)に出遇(であ)う世界

人間がお互いに対立する関係を厭(いと)い離れて、お互いに平等に敬いあうことのできる浄土。その世界こそ人と人が尊厳をもってお互いに出遇(であ)うことのできるただ一つの処(ところ)なのでしょう。そのような世界をともに願い生まれようというのが、人間にとってとても大切なことだと親鸞聖人はいわれています。

また、そのようにお互いに相手を認めあう世界を相照(そうしょう)の世界ともいいます。相照(そうしょう)とはお互いに照らしあい、お互いの尊厳を認めあう関係性の世界です。

 

衆生を救済する力(はたらき)

浄土に往生したものは、一子地(いっしじ)を得て、いのちあるすべてのものを一人子(ひとりご)のよう慈しみむ大慈大悲心(だいじだいひしん)をもって、浄土を出て迷いの世界に還(かえ)り、衆生を救済することになります。それらのすべて阿弥陀如来の本願の力(はたらき)によるものです。

すべてが一つにつながりあって一如平等(いちにょびょうどう)だからこそ、十方衆生すべてが救われなければ、一人の救いも完結しない。すべての者を一人も残さず救うという、阿弥陀如来の摂取不捨の願いが真実なのです。浄土真宗が究極の大乗仏教(だいじょうぶっきょう)であるといわれている所以(ゆえん)です。

以下、親鸞聖人の言葉から「相互の関係性」考えてみます。いままで縁起と浄土真宗の関係について考察されたものは少ないように思います。

2.親鸞聖人の言葉

歎異抄後序

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。

阿弥陀如来が、はかり知ることができないほどの長い間、思案された願いをよくよく案じてみれば、ひとえにこの親鸞一人を救うためでありました。(意訳)
と記されています。

一見身勝手な言葉のように思われますが、お念仏は親鸞聖人一人が救われるということは十方衆生すべてが救われる名号法だということでしょう。

一人のなかに十方衆生を見て、十方衆生のなかに一人を見る、一即一切(いっさいそくいち)、一即一切(いちそくいっさい)の華厳の世界観です。

重々無尽の縁起(じゅうじゅうむじんのえんぎ)ともいいます。

歎異抄5条

一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。

いのちあるものすべては、幾度となく生まれ変わり死に変わりしてきたなかで、お互いに父母・兄弟・姉妹(ふぼ・きょうだい・しまい)としてつながりあっているのです。(意訳)

教行信証 化身土文類

原文

仏経(ぶっきょう)にのたまはく、《識体六趣(しきたいろくしゅ)に輪廻(りんね)す、父母(ふぼ)にあらざるなし。生死(しょうじ)、三界(さんがい)に変易(へんやく)す、たれか怨親(おんしん)を弁(わきま)へん》と。またのたまはく、《無明慧眼(むみょうえげん)を覆(おお)ふ、生死(しょうじ)のなかに来往(らいおう)す。往来(おうらい)して所作(しょさ)す、さらにたがひに父子(ふし)たり。怨親(おんしん)しばしば知識(ちしき)たり、知識(ちしき)しばしば怨親(おんしん)たり》と。ここをもつて沙門(しゃもん)、俗(ぞく)を捨てて真(しん)に趣(おもむ)く。庶類(しょるい)を天属(てんしょく)に均(ひと)しうす。栄(えい)を遺(す)てて道(どう)に即(つ)く。含気(がんき)を己親(こしん)に等(ひとし)しとす。[あまねく正(ただ)しき心を行(ぎょう)じて、あまねく親(した)しき志(こころざし)を等(ひと)しくす。
また道(どう)は清虚(しょうこ)を尚(とうと)ぶ、なんぢは恩愛(おんない)を重くす。法は平等(びょうどう)を貴(とうと)ぶ、なんぢは怨親(おんしん)を簡(えら)ぶ。

現代語訳
顕浄土真実教行証文類(上)本願寺出版社
「煩悩が智慧の眼をおおい、生まれ変わり死に変わりして迷いの世界をさまようのである。さまよい続ける中で結ぶ数多くの縁により、お互いに父ともなり、子ともなる。また、敵も味方も、しばしば友となるのであり、友もしばしば、敵にもなり味方にもなるのである。」と説かれている。
このようなわけであるから、修行者は俗世間ょ離れて仏道に入り、すべての衆生を肉親と同じように敬うのである。この世の栄誉を捨ててさとりの道に入り、あらゆる衆生を自分の父や母と同じように見なすのである。
また、道はすべてにとらわれのない心を尊ぶのに、あなたは肉親の情を重んじる。法はすべてもものの平等を尊ぶのに、あなたは敵か味方かを区別する。

語句 
識体(しきたい):心の主体。庶類(しょるい):衆生のこと。
天属(てんしょく):肉親。含気(がんき):衆生、有情に同じ。
己親(こしん):自分の親。

 

 

解読 普遍的な人間関係 御同朋(おんどうぼう)

怨親平等親鸞聖人の言葉から考察したものはあまりないように思います。またこの

化身土文類のこの言葉に言及した書籍も見たことがありません。

基本的趣旨は歎異抄5条と同じだと思います。

仏教と儒教道教の違いを明確にして、仏教が倫理道徳を超えた普遍的な救いであることを示されいます。基本的趣旨は歎異抄と同じだと思います。

親鸞聖人は御同朋(おんどうぼう)を一切衆生まで広げてお考えでしたが、親鸞聖人ご在世の頃は儒教道教の影響が非常に強かった時代ですから、そのなかで血縁関係を超えた普遍的な人間関係である御同朋を語られたのでしょう。

同胞(どうほう)ではなく同朋(どうぼう)です。同胞と同朋、音は似ていても意味はまったく異なります。

すべてのいのちは、お互いに一つにつながりあっている一如平等のいのちなので、敵味方と分けることは本来できないものです。

めざすべき浄土が怨親平等(おんしんびょうどう)の世界であることを示されています。

 

3.縁起   因縁生起(いんねんしょうき)
①『釈尊の教えとその展開 インド篇』本願寺出版社  

「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは仏を見る」
この世に存在するすべてのものは、お互いに関わり合って存在している。

 

此あるが故に彼あり。此生ずるが故に彼生ず。
此なきが故に彼なし。此滅するが故に彼滅す。

ここでは此と彼で表現されているが、要するにあるものと他のものとの関係性をいうのであって、他の何物とも関わりなく条件づけられずに存在するものはないということである。

時間的にも空間的にも、また存在論的にも認識論的にも、あるいはまた論理的にも、あらゆるものは関係し合って成り立つものであり、ここでの此と彼とのようであつて、自ら単独で完結しているものはないというとらえ方である。

 

 

②『ブッダ入門』中村元著 春秋社 

ありとあらゆるものは因縁によって成立している。
つまり神さまのような人が一人いて、その人がすべてを創造するというのではない。

私なら私という一人の人間がここにいる。そこには無数の条件が加わっているのです。
その条件のそれぞれが成立する背後には、また無数の条件があった。
さらに、それらの背後には、また無数の条件がある。

それらが働いて、個々の人間の存在を成立させているのです。
人間ばかりではありません。この世の出来事のひとつひとつが、無数の条件によって成り立っている。これが因縁の教えです。ときに区別する場合には、「因」が、主な原因、「縁」は副次的な原因という解釈もされています。

そういう因と縁とが加わって、世のなかのありとあらゆるものが成立しているという因縁の教えを、アッサジは説いたのです。
そこで舎利弗と目連の二人は、はっと目が覚めて、それで仏教に帰依したと伝えられています。

 

4.浄土真宗と縁起

浄土真宗と祈り』稲城選恵著 永田文昌堂
①要旨

縁起、空を否定すると仏教そのものの否定となる。それ故、他力を否定することは仏教そのものを否定することになる。

 

②本文

菩提流支(ぼたいるし)の他力の訳を実叉難陀は縁起とか依他と訳している。更に原語によると、paratantraとなっている。paratantraは流支以前の訳の曇無識のparabalaとは異なる。

parabalaはotner powerと訳され、他力の現在の英訳の如くである。paratantraは依他、縁起と訳すのが適訳といわれる。それ故、菩提流支の他力の原語は正しく縁起、依他の仏教の根源的立場を意味するものといわれる。

このことは宗祖の『教行晢証』の「信巻」の行信結釈の文に、「しかれば若しは行、若しは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまうところに非ること有ることなし、因なくして、他の因有るには非るなり(※)」とあり、『往生論註』「浄入願心章」の文にょって結ばれている。

この結びの文は龍樹菩薩『中論』「観因縁品』にあるが如く、無因計、他因計、自因計、共因計の四性計の否定である。即ち空なることを意味する。先哲はこの行信結釈の文は他力回向をあらわすといわれている。

これによると他力は縁起、空なることを場としていることが知られる。

縁起、空を否定すると仏教そのものの否定となる。それ故、他力を否定することは仏教そのものを否定することになる。

③現代語訳

顕浄土真実教行証文類(上)本願寺出版社

(※)このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。
如来より与えられた行信(ぎょうしん)が往生成仏(おうじょうじょうぶつ)の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。

 

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