親鸞さまに学ぶ

親鸞聖人の言葉を味わいます

厭(いと)うしるし

親鸞聖人のお手紙第2通(部分)
1.意訳
私たちが煩悩をそなえた人間であるからといって、自分の心にまかせて、身にもしてはならないことをゆるし、口にも言ってはならないことをゆるし、心にも思ってはならないことをゆるし、どのようなことでも、自分の心のままにすればよいと言いあっている人がいるようですが、それはとても心の痛むことです。      

無明(むみょう)という酒の酔いも醒めていないのにさらに酒をすすめ、煩悩の毒も消えていないのに、ますます煩悩の毒をすすめるようなものです。

南無阿弥陀仏という薬があるのだから煩悩の毒を好みなさい、というようなことはあってはならないことだと思います。

阿弥陀仏のお名前を聞き、お念仏を称えるようになって久しくなっておられる人々は、この世の悪いことを厭(いと)うしるしや、この私自身の悪いことを厭(いと)い捨てようとお思いになるしるしも、自ずとあらわれてくるものだと思ってください。

2.語句           
※ゆるす:許(ゆる)す。赦(ゆる)す。緩(ゆる)す。ゆるめる。ゆるやかにする。自分の心・本能にまかせて生きようとすること。お手紙のなかでは放逸(ほういつ)と書かれています。
※厭(いと)う:嫌(きら)うは、好きでないものを積極的に排除する意だが、厭(い と)うは消極的に身を引いて避けるの意。遠離(おんり)離れ遠ざかること。
※しるし:徴・験・証・あかし。          
※無明(むみょう)の酒:苦しみの根本。智慧のない愚かさ。自分中心の世界に酔って、ありのままにものごとを見ることができない人間の愚かな分別智(ふんべつち)。 
※毒私たちの心は貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三つの毒を要素として構成されています。貪欲(とんよく)むさぼり。瞋恚(しんに)いかり・憎しみ。愚痴(ぐち)智慧のないおろかさで酔いをともなう根本的な毒。凡夫の自性である本能は自分の欲望と衝動にまかせて生きたいということ。憎しみは嫉(そねみ)み憎しむ、妬(ねた)み憎しむこと。自他を比較したときに嫉(そねみ)み憎しみ、妬(ねた)み憎しむ心が生じます。 

3.味わい
親鸞聖人のお手紙は尊敬語や丁寧語が多く用いられ、聖人の門弟に対する尊敬の心が伝わってきます。※門弟とは同門の弟子という意味で、同じ法然聖人の弟子という意味です。
親鸞聖人のお手紙を読むとき、自分自身の生き方がとても恥ずかしく思えてきます。
親鸞聖人のお言葉に学ぶと、自分自身のありようが深く問われてきます。

欲望と衝動にまかせて本能のまま生きたいというのが、誤魔化しようのない私自身の本性であることがあきらかになるにつれて、自分の心にまかせるのではなく、阿弥陀仏の心にまかせて生きようと願うようになります。お手紙の第4通では「こころをひるがえす」という言葉で書かれています。回心(えしん)ともいいます。

このお手紙は自分がつくる毒に苦しむ私自身のあり方に、問題があるからいただいた手紙だと味わっています。
ですから他人に対して説明することではありません。

4.原文

親鸞聖人御消息二
煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。

酔ひもさめぬさきに、なほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。

仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、この世(※異本)のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ。
浄土真宗聖典(註釈版)735頁

 

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