親鸞さまに学ぶ

親鸞聖人の言葉を味わいます

いのちと色

いのちの尊厳

浄土和讃

親鸞聖人は浄土和讃のなかで次のように讃嘆されています。
①原文  『註釈版聖典563頁』本願寺出版社
一々のはなのなかよりは

三十六百千億(さんじゅうろっぴゃくせんおく)の

光明てらしてほがらかに

いたらぬところはさらになし

②現代語訳 『聖典セミナー浄土和讃本願寺出版社  
弥陀の浄土には青・白・玄(げん※)・黄・朱・紫などの蓮華が咲き乱れ、

その蓮華の一つひとつの花からは

三十六百千億というたくさんの光を十方にはなっている。

この光の至り届いていないところはどこにもないのである。

※玄は黒色

 

1.いのちと色
浄土に咲いている蓮の花びらには、青・白・玄(黒)・黄・朱・紫の6つの色があり
青い色は青く輝き、白い色は白く輝いています。

三十六百千億というのは不思議な数ですが、六つの色が互いに照らし合っているから
六×六=三十六ということになります。
これを相照(そうしょう)といいます。

六つの色でありながら、照らし合うことにより無量の色になります。
青は青のまま白・玄・黄・朱・紫・を照らす。

白は白のまま玄・黄・朱・紫・青 を照らす。

同様に玄・黄・朱・紫も他を照らします。

別の言い方をすれば、青は白・玄・黄・朱・紫に照らされて、それぞれの色を内に含んで、青として輝いています。

さらに、百千億(ひつゃくせんおく)の花びらのそれぞれの色が照らし合っているのですから、無量の色となり輝いているのです。

一つの花びらの色には、無量の色が内包(ないほう)されているという、仏教の壮大な宇宙観が示されています。

具体的にその意味を味わってみると、色はいのちを表わしているのだろうと思います。
私には私にしかない色があります。
無量のいのちがあれば色もまた無量です。

一つとして同じいのち(色)はありません。

青い色が青く輝くというのは、当たり前のことをいっているようですが、

私たちは本当の自分の色というものを知っているのでしょうか。

仏の光に照らされたときに、本当の自分の色に気づき、輝いてゆくことができます。

照らし合うなかで存在するというのは、縁起というものをあらわしています。

すべては、互いに支えあう無限の関係性のなかで存在しています。

それぞれの色に優劣や上下の関係はありません。
他の色を排除することもありません。

輝きは尊厳性を表しているのではないかと思います。

それぞれの個性を持ちながら、尊厳性は量(はか)ることができないから平等なのです。

浄土や阿弥陀如来で具現(ぐげん)される金色というのは、尊厳性を象徴しているのではないかと思います。

私たちは自分自身が一番輝きたいと思っているのではないでしょうか。

しかしこの考え方はともすれば独善的であり、他のいのち(色)を排除することになりがちです。
他の輝きが見える人こそ、本当はその人自身が輝いていることになります。

私たちはさまざな思いをもち、悩みながら生きている平凡な人間(凡夫)です。

まるで石、瓦、礫(つぶて・小石)のようです。

だけどその平凡ななかにこそ、それぞれの色と輝きがあるのではないかと思います。

当たり前のように思える日常生活のなかにこそ、本当に大切なものがあるのではないでしょうか。

※いのち
命ではなく「いのち」と書いたのは身体的・生理学的・法律上の命ではなく、尊厳性をもって輝いている、定義できない「いのち」として表すために平仮名で書きました。


2.あとがき
以前、鯖江市の絵画教室・絵楽塾(えがくじゅく)で、洋画を画こうとされる方に「仏教と色」について話ししてもらいたいと、依頼されたことがあります。

鯖江市出身の画家Nさんの紹介によるものです。

この文章はその時の資料をもとにしています。

肉眼で見る「色」や「光」と、仏教の「色」や「光「はどのような違いがあるのでしょうか。

Nさんともよく色の話しをしたものです。

若いときから「光」と「色」については関心がありました。

写真現像の仕事をしたのもそんな理由があったからです。

仏教と写真現像は私のなかでは根幹では共通するテーマとなっていました。

 

3.仏説無量寿経
仏説無量寿経という経典には、浄土の華について次のように書かれています。

①原文 『註釈版聖典40頁』本願寺出版社
衆宝(しゅぼう)の蓮華(れんげ)、
世界に周満(しゅうまん)せり。
一々の宝華(ほうけ)に百千億(ひゃくせんおく)の葉(はなびら)あり。
その華(はな)の光明に無量種(むりょうしゅ)の色あり。
青色に青光、白色に白光あり、玄・黄・朱・紫の光色(こうしき)もまたしかなり。
暐曄煥爛(いようかんらん)として日月(にちがつ)よりも明曜(みょうよう)なり。


一々(いちいち)の華(はな)のなかより 三十六百千億の光を出す。
一々(いちいち)の光のなかより 三十六百千億の仏を出す。
身色紫金(しんじきしこん)にして 相好殊特(そうごうしゅどく)なり。
一々(いちいち)の諸仏、また百千の光明を放ちて、あまねく十方のために
微妙(みみょう)の法を説きたまふ。


※暐曄煥爛(いようかんらん)
華光が明るく鮮やかに輝くさま

※三十六百千億(さんじゅうろっぴゃくせんおく) 
浄土の蓮華には百千億の花びらがあり、その花びらに青・白・玄(げん)・黄・朱・紫の六光があって相互に照らし合うから 六六三十六の百千億(ひゃくせんおく)の光になる。

一即一切(いちそく・いっさい)、
一切即一(いっさい・そくいち)という無礙(むげ)の相をあらわしている。


②現代語訳  『浄土三部経 現代語版69頁』本願寺出版社
いろいろな宝でできた蓮の花が、いたるところに咲いており、それぞれの花には百千億の花びらがある。
その花の放つ光には 無数の色がある。
青い色、白い色と それぞれに光り輝き、
同じように玄(黒)・黄・赤・紫の色に 光り輝くのである。
それらは 鮮やかに輝いて、太陽や月よりも なお明るい。

それぞれの花の中から、三十六百千億の光が放たれ、そのそれぞれの光の中から、三十六百千億の 仏がたが現(あらわ)れる。
そのお体は金色に輝いて、お姿はことのほかすぐれておいでになる。
この仏がたが またそれぞれ 百千の光を放ち、ひろくすべてのもののために、すぐれた教えをお説きになり、数限りない人々に、仏のさとりの道を歩ませてくださるのである。


3.唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)
親鸞聖人は『唯信鈔文意』のなかで次のように著されています。
①原文  『註釈版聖典708頁』本願寺出版社
「能令瓦礫変成金」といふは、「能(のう)」はよくといふ。
「令(りょう)」はせしむといふ。  
「瓦(が)」はかはらといふ。
「礫(りゃく)」はつぶてといふ。
「変成金(へんじょうこん)」は、「変成(へんじょう)」はかへなすといふ。
「金(こん)」はこがねといふ。


かはら・つぶてを、こがねに かへなさしめんがごとしと、たとへたまへるなり。
れふし・あき人、さまざまのものはみな、いし・かはら・つぶてのごとくなる、われらなり。

如来の御ちかひを、ふたごころなく信楽(しんぎょう)すれば、摂取(せっしゅ)のひかりのなかに、をさめとられまゐらせて、かならず大涅槃(だいねはん)のさとりをひらかしめたまふは、すなはちれふし・あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしと、たとへたまへるなり。
摂取(せっしゅ)のひかりと申すは、阿弥陀仏御(おん)こころにをさめとりたまふゆゑなり。

②現代語訳  『唯信鈔文意 現代語版20頁』本願寺出版社
「能令瓦礫変成金」というのは、「能」は「よく」ということであり、「令」は「させる」ということであり、「瓦」は「かわら」ということであり、「礫」は「つぶて」ということである。
「変成金」とは、「変成」は「かえてしまう」ということであり、「金」は「こがね」ということである。

つまり、瓦や小石を金(きん)に変えてしまうようだと、たとえておられるのである。

漁猟(ぎょりょう)を行うものや商いを行う人など、さまざまなものとは、いずれもみな、石や瓦や小石のような わたしたち自身のことである。
如来誓願(せいがん)を疑いなくひとすじに信じれば、摂取の光明の中に摂め取られて、必ず大いなる仏のさとりを 開かせてくださる。
すなわち、漁猟(ぎょりょう)を行うものや 商いを行う人などは、石や瓦や小石などを 見事に金にしてしまうように救われていくのである、
とたとえておられるのである。
摂取の光明とは、阿弥陀仏のお心に 摂め取ってくださるから、そのようにいうのである。

 

 

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